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「自責」のジレンマ

皆さん、こんにちは。
暑いですね、ビールが美味しい季節になりました。年がら年中美味しいんですけどね。

さて、今回は「自責」のジレンマについてです。

「自責感情を持って、仕事しなさい」
「他責ではなく、自責で考えて」

色々な職場や打ち合わせでそのようなことを聞きます。
結論から言うと、私はこの「自責」を要求されることが大嫌いです。

なぜか、「自責」は結果的に自然発生するものだからです。要求されて沸き起こるものではありません。

自責感情が生まれるかどうかというのは、これまでのコミュニケーションの結果です。例えば、私たちは今日信じられない程に暑くて滝のような汗をかいてしまう、その状況を指して「自分のせいだ」とは思いません。「今回の暑さの原因は私のせいだ」とか「今回の暑さは私自身が生み出しており、大変遺憾です」とは言いません。それは、天気のことは、自分でコントロールできることではないからです。

自責は自分の思う責任領域や役割期待において、今起きている問題に対して「自分がこういう風にしていたら避けられた」、「このようなやり取りを事前にしておけば発生しなかった」と自分自身で事後的に感じ入るものです。それまでのやり取りで、「あなたには期待しません」、「ここからここまでの仕事やっとけ」などと言外にでも発信していたら、自責なんて絶対に生まれません。その責任領域を制限させているからです。何らかの問題が発生したときに問われるべきは、これまでの期待やその伝え方であって、メンバーの自責感情が生まれていないのは、それまでのコミュニケーションの結果なのです。

自責を問題が発生した後に要求するのでは、事既に遅しなのです。それは他責そのもので、自責を求めることが他責になっているという点で、自責のジレンマに囚われています。

建設的、現実的にも目の前で起きている問題を解決するためにどのような対処ができるか、そもそもこの問題は誰の責任領域において、誰のどういう行動が、その問題に結実したか、もう少し広い視座で見つめる必要があります。

何らかの問題が発生したときに、特定個人の責任100%であることなんか、ほとんどありません。例え、誰かが暴走して問題が起きたとて、それは事前に止めることができなかったことにも責任があるし、暴走に至らせた背景に関与していたこともその一端でしょう。問題を局所的に眺めるのではなく、時系を拡大させて、どのタイミングで自分がどうできたのか、これらを含めて総合的に責任領域やそれに伴う言動を振り返ることが必要です。局所的に責任の所在を明らかとして罰するよりも、問題の責任を全員で担う方が問題はさっさと解決します。すべきことは謝罪させることではなく、問題を解決し、今後の防止策を考え、それを運用することです。

自責感情が足りないと言う前に、自分自身のあり方を振り返って、自分にも責任が(一部)あったと認識することから議論をスタートさせたいものです。それが「自責」です。

自責を狂ったように繰り返す人間自体が、自責できていないことをきちんと認識したいですね。

それでは、アディオス。


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