地獄をかぞえる。ビスケット。テレビ
2020628
家にいる。家にずっといるわけではなくパソコンの前で文章を書くためにもっとも適した環境だから今家にいる、9時間前に外に出た。喫茶店のアイスコーヒーを買いに。当時20分の散歩をした僕は今、家にいる。
家にずっといるわけではないけれど、明らかに長い時間家にいるきがする。しかし、2日ほど前には東京にいて、僕はこの家にはいなかった。ゆえに、そんなに長いこといるわけでもない。人に会っていないわけでもないし、長いこと笑っていないとか、労働から疎外されているとか、過度の絶望に直面しているとか、そういうわけでもない。それなのに、もう何ヶ月もずっと家に引きこもっているような心境が何日も続いているような気がする。だが実際は、9時間ほど前に冷コーを買いに出て、2日前に東京で人に会い、足が地獄になり、その前は人の家に遊びに行った。それで、何ヶ月も引きこもっている気になったのは、多分3時間前とかだ。全然数日悩んだとかそういう話ではない。
果たしてそうだろうか。数日続けて悩んでいることはないけれど、断続的にこんな気持ちになってはいないだろうか。
で、その原因はなんだろう。
それはわかりきっているけど、それを名指しにしてしまうとあまりにもどうでもよくて、泣いてしまうと思うので、(泣いたって全然かまわないのだが)ひとまず僕は迂回しなくてはならない。
たとえば、そう、昨日買ったビスケットのことを話すとか。
なんの特徴もない、エスパー魔美とかに出てきそうなビスケット。
3Dモデリングするのはめんどくさそうな、無駄に装飾性の高いビスケットは、3枚で飽きる味をしていて、家に帰ってコーヒーを飲み出してからずっと手元にいる。いつ無くなるつもりなんだろう。
ビスケットを口に運ぶ代わりに、地獄をかぞえる。(家。外。トップバリュー。Twitter。失言。2週間くらい前。金。酒。地声。出し忘れた燃えるゴミ。虫の羽音。洗濯したすぎる布団。寝汗。乾燥肌。私の絵、、、)
ビスケットはまだいる。家にいる。
僕よりも長い時間、この家にいる。
地獄を数えているうちに、水をやり忘れたままの多肉植物は死に近づく。ゴミの中で虫が繁殖する。部屋のすみの埃がフェリックス=ゴンザレス・トレスのキャンディーみたいに積み重なっていく。
ところで、ビスケットのエネルギー量は1gあたり5キロカロリーである。それに対して、爆弾の主成分にあたるTNT(トリニトロトルエン)のエネルギー量は0.65キロカロリー/gしかない。ビスケットにはTNTの8倍ほどもエネルギー量が内在しているのだ。それなのに、ビスケットには何も壊すことができず、TNT爆弾は僕が笑顔から真顔に変わるまでの間くらいにビルを粉々にすることができる。どうしてだろうか。
ビスケットとTNTでは、仕事量が違うからだ。はしょって言うと、TNTの方が、エネルギーを熱に変換するスピードが桁外れに早いのである。
ちなみに、体重50kgちょいの人間の60分あたりのデスクワークのエネルギー消費量は、約80キロカロリーらしい。ビスケット全部食べたら571キロカロリー。僕の仕事量はビスケットと同じくらい。
ビスケットになって食べられて、他人の身体の一部になるのと、どうでもいいことで悩みながら作業を続ける8時間くらいを過ごすのは同じくらい。
つまり、家にいるということは、ビスケットでいるということだ。
雨にも負けず、風にも負けず、3枚で、飽きる味のするビスケットのようなものが、私である。
家には強い刺激がない。自分の想像力の外がない。スマホを見たくなくて、眺めると脳が死んでいくような気がして、その考え自体があまりにも陳腐で、若干病んでる自分を眺めて、なおスマホを見て、負の階段を降っていくと、最後に何もやる気が無くなるお風呂にちゃぷんと心が浸かる。
たとえばすごく楽しい会で、さようならを言って、友達を背にした後、笑顔が真顔に変わる時のコンマ何秒の孤独を、無限に引き伸ばすと、おそらくはこんな感じの気持ちになる。あるいはもっと引き伸ばせば、世にも美しい詩になって、全身が凡庸さで輝き出すかもしれない。誰だって経験しているなんの変哲もない普通のただの単純素朴な世界でかけがえのないたった一つの地獄。人はしばしばそれを前提と呼ぶ。
2日したらゲロを吐いているに違いない。こんなことを書いているって未来の自分に知れたらと思うともう今すぐ帰りたい気持ちになる。しかし今は家にいるし、未来の自分はこれを書いている自分を知っている。だから2日後の自分はこれを見て吐く。2日前の自分としては申し訳ないという他ない。
今から謝っておきたい。そして2日後の自分がこれをキモすぎて消したとしても仕方ない。でも2年後の自分はきっとこれを見たいと思うんじゃないだろうか。自分の今を思い出したいだろう。
時には、こんな感じで意味のない文章をひたすら書いていこう。
そういう場所ってもうないね、Twitterはそういう場所じゃないんだって。
人は自意識過剰なのが正常だって昔主治医が言ってた。むしろ、人の目を気にして強いプレッシャーに苛まれるからこそオリンピック級のジャンプが可能になる。じゃあひとりごとの強度はどう上がっていくのだろう。Twitterにいれば、ひとりごとがだんだん上手くなる。目や頭や文法表現や視覚的無意識がどんどんTwitterになっていくのが自分でもわかる。それはめっちゃキモいことでもある。いいねやRTがもらえる使い方や、そういうのに縛られない切り口がわかる。そういうのを踏まえることのキモさと葛藤と自己欺瞞。そこでは、ひとりごとはフォーマリズム化する。四角い矩形の枠組みの中でどのように表現するかという命題にコミットせざるをえなくなる。(それがどうでもよくなることはできる。)この前あるラジオを聞いていて思ったのは、そういうひとりごととは別の、チラ裏とか、誰も見ない日記とか、そういうのとも別の、特殊なひとりごとの精度が存在するということだった。実りのあるひとりごとは、自分が感じたかったあの感じを思い出させてくれるような気がする。僕はそれを思い出したいのかもしれない。(しかし言い訳ってなんでいつまでも言えて永久におもんないのかな。)
なんにせよ、心が炎症を起こせば詩はたまる。その要領で言葉が積み上がる。それをビスケットになって成形する。
それは果たして、すぐに飽きる無味乾燥なものになるだろうか。味の向こう側に行けるかな。
3枚で、飽きる味のする、ビスケット。きまじめなうた、夏の念仏…。
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