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【日常的な】軽く生きることか?

 日々の情動。フレームの外から。
    誰もがたずさえている負のエネルギー。どこから来たのか、いつの間にか胸中に居座っているぞ。くすぶって、くすぶって、じわじわとこころをヘドロのようなものにしてしまう。仕方のないことなのだけども。
 自らを痛めつけて無惨なかたちにしてしまうのもイヤだが、最悪なのは、外界にその負のエネルギー弾をぶつけてしまうこと。要は八つ当たりである。さいあく  (←もしかしたらこの“最悪”という言葉にも負のエネルギーが付しているかもと思い、せめてもの配慮として平仮名表記にした次第。どうだろうか)。
 自他を傷つけてしまう前に、大半の人間は事前の対処を行う。賢いね。
その対処法は人それぞれで、音楽を聴くだの、読書をするだの、人と会うだの、話を聞いてもらうだの、まぁ多様な方法で負のエネルギーを雲散霧消する。非常にかしこい、リッパ  (別に馬鹿にしてるわけじゃないのです。なんかこういう言い回しになってしまいます)。

 ところで私のことなのだが、その対処がうまくいかない。上に列挙した方法を試せば、確かに負のエネルギーはどこかに行ってしまった、こころ晴れやか、みたいな気持ちになりもする。負の程度が軽ければの話なのだが。
どうやら私は、負のエネルギーを集めやすいのかもしれない。消したつもりでも、燻っている。直ぐに再燃する。ぼうぼうと。
 いや、別に私がトクベツなこたない。そんなことない。みんな、燃え盛る火炎をなだめているに違いない。なでなでしている。それでもこちらから見れば、まったく問題なしに、スーんと生きている。すごい。なんなら飾っている。
 やっぱりみんながトクベツ上手なのかもしれない。

 以前は、詩を書くことが私なりの対処法となっていた。しかし、ある時から詩に対する態度を変えた。こんな向き合い方で果たしてよいのかと。要は、己のルサンチマンを詩に還元していいものか  (リッパな言い回しは心してかかれ)  と逡巡していた。詩をストレスの捌け口としてしまうだけで良いのだろうか。正しく詩と向き合えているのだろうか。
 結果、それは何だか違う気がする、ということになった。ということで、詩を書くことは対処法から外れてしまった。

 どうしたらこの負のエネルギー、どうしようもない哀しみと付き合えるのだろうか。ちょっと無理な気がする。
 社会がもうちょっとだけ良くなってくれたら、もう少しだけ私も生きやすくなるかもしれない。知らんけども。
 何だか嫌なのは、このこころの燻りに、ちょっとだけ希望とか可能性とかの意味づけをしている自分を感じることなのである。

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