【日常的な】おだやかな空気感で

 退屈なので限りなく脱力した文体で書きます。あえて  (あえて)、論理展開を念頭におかずに文をつむぎます  (あえてです、読みやすさを犠牲にします。よしなに)。

 人は、何に対して牽かれるのでしょう。その多くは、芸術品と呼ばれるものに対してなのでしょうか。現代においては音楽、漫画、小説、この辺りですかね。
 しかし別にこう始めておきながら、本noteで芸術論めいたものを語りほうけたい訳ではないです。
 今、上の方に占めている話題は、私は“うつろうもの”に対して心を掴まれている、ということ。
 うつろうもの、そこに無いもの、目に見えない、見えるハズがないもの。
存在と存在のはじまに見るもの。
 “うつろうもの”には、悠遠で彩やかで泣きたくなるような儚さを覚えるのです。あなたの心にも響くものがあるはずです。今朝がたにも、こんな感じを覚えたのではないでしょうか?
 ここまで書いて、“うつろうもの”とは何を指すのか、明示してみたくなりました。が、(あえて)  しません。というより、してしまったらその時点で私を失ってしまうような、そんな味わいとバランスなのです。
 この感覚は、忘れてはならないような気がします。この感覚は、擦り切れるような日常において、痛みを痛みとして鮮明に多次元空間に沈めてくれる大事なシグナル…​…​。

 夜のような、朝のような、照らされる光に覚えるような、その存在を存在として息を吸う、そこに居る自分を感じていることが、漂う心地につながるのでは。

 しかしこれまでの話の流れをそこらの川に流します。これまでの文章はスマートフォンで書いていて、ここからはPCで書いているのですが、なんだか文字列の雰囲気が異なるように見えますね (見えないですかね)。画面の大きさの問題なんでしょうか。より客観的に見えるというか。なんというか。
 PCとスマホだと打ち込むスピードも変わりますし、PCだとなんだかフォーマルを装うようになる気がするなぁ。

 おだやかになれる心地は、すくなきものに。

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