見出し画像

医療と生と死を考えさせられる(ヴェジタブル・マン 渡辺淳一)

新潮文庫の渡辺淳一著「ヴェジタブル・マン(植物人間)」を読んだ。

この本は文庫オリジナルで、奥付(発行)は平成8年11月1日となっているので今から27年も前である。
なぜ今この本を読んだのかというと、確か出版当時は僕が書店に勤めていたときであり、母親に頼まれて買い、その後母が読んだあとに勧められて借りて本棚に今までずっと残っていたのだった。
いつか読もうと思い約27年(笑)。ようやく読んでみた。

渡辺淳一の著書を読むのはたぶん初めてだ。著者は医者であり作家であることが有名で恋愛ものなど有名な著書もあるが、この本は医学ものであり、表題作を合わせて四編を収録してある。
(※渡辺淳一氏は2014年に亡くなっている。)
出版は27年前とはいえ、いったいいつ書かれた作品なのかと本の最後を見ると、昭和48年、51年、53年、56年と雑誌に掲載されたものだった。
もはや僕が生まれた頃や少し後に書かれた本ということでまず驚く。

さて、内容はというと人間の命、医療とは何なのかと考えさせられる話ばかりだった。
表題作「ヴェジタブル・マン」は、妻と二人の子供を乗せた車を運転していた主人公が歩行者をはねてしまい、その結果命は助かったものの植物人間になってしまう。
保険には入っていたが、保険金が入ってくるまでの間の費用は立て替えなくてはならず金策に走ることになり、また保険金が入るようになっても長期的には不足が予測されその他様々な問題で家庭が崩壊寸前になる。
会社での地位を重要視するあまり、社内でも限られた上司にしか相談ができず、被害者は治る見込みがないままで、主人公は疲労が溜まっていく日々。そのうちいっそ被害者の死を望むようになっていく・・・
書かれた年代が古いとはいえ、医療が発達しなければ被害者は死んでいた。医療の発達とともに生き延びてはいるが意識もなく、ただ肉体が生命として食べて排泄して生きているだけ。医療の進歩の是非を問いかける内容だった。

その他に、「母親」は、喘息の子供を持つ母親が人体実験などに否定的だが、子供の喘息を治すためには積極的に実験的な手術を行って医学の進歩を望むという矛盾を描く。

「消えた屍体」は、医科大学で人体解剖のための屍体(※現代では献体というのだと思う)が、2体同時に消えてしまったというミステリー。さすがに当時と現在では背景は違うだろうけど、屍体はどこから調達しているのかということを考えさせられる社会問題も孕む話。

最後の「医者医者物語」は、元医者で今は医事評論家をしている主人公が原因不明の発熱が続きその正体を探る物語。
素人ではないがために、あらゆる病気の可能性を推測するがどれも当てはまらない。(今ならこの人インターネットで相当調べるだろうなと)
元医者というプライドから、近所の若い医者を信用できなかったり、妻の意見を受け入れたくないという葛藤などが面白い。
最後にはやはりオチがあった。

書かれてから時代は約40~50年経ち、医療技術は格段に上がっていると思うが、それでも逃れられない死。しかし、死ぬまでの物語は多様化する一方ではないかと思う。多様な病気、また肉体のみならず精神の病気。
元医師の著者が書いたからかもしれないが今読んでもリアリティを感じて面白かった。

内容とは別で興味深かったのは、時代が違うので言葉遣いや、語彙や単語の違いを感じる。あと一番わかりやすいのは生活様式の違いだ。
「消えた屍体」で雑誌記者が何かを知っている学生に連絡先を教える電話番号が記者の“自宅の電話番号”なのだ。学生が記者の自宅にかけると記者の奥さんが出て、それを記者に伝えるのは記者が帰宅してようやく伝わる。携帯電話が無いので当然だが、今考えると情報伝達技術は恐ろしく進んだと思う。
あと、体温計が水銀柱のもので、体温計を振って水銀柱をもとに戻すなど忘れていたことを思い出す(笑)。
医者が平気でタバコを吸ったりするのも時代の違いを感じる。

いろんな意味で面白い一冊だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?