探求学習とは「何を」探求するのか?(社会的手段と社会的目的は違う話から)

友達と話していて、「仕事としてやらなければならない」という縛りを強く感じた。結局「ほかの人がどう納得するのかを大事にする」が目的になっていそうだった。

手段は目的になりやすい。初めて行った人は「目的」のために「手段」を生み出すのだが、それがうまくいったときに伝えられると「手段」を「遂行しなければならない目的」に変わってしまう。

社会的態度は、「社会人」として大事である。挨拶ができなかったり、横柄な態度をとったり、敬語ができなかったり、TPOをわきまえなかったり、ホウレンソウがうまくできなかったり、締め切りを守らなかったり・・・そういう人はコミュニケーションを阻害し、チームワークを阻害する。要は、社会人としての態度(=社会的態度)とは、人間が力を合わせて仕事をしていくうえで、スムーズにいくように編み出されてきた「手段」なのである。

しかし、実際にその「社会的態度」に関わる言動を見ているとどうだろうか。「社会的態度を健全にさせる」ことが目的になっていないだろうか。「ほかの人がどう納得するのか」というのは、「目的達成の過程」であって、「それ自体が目的」ではない。例えば、教育は「子供の自立」がひとつの目的であって、その教育に対する「ほかの大人の納得」は手段でしかない。

社会的手段(例えば社会的態度のような仕事をスムーズに進めるための工夫)を守ることは社会的な目的ではない。

社会的目的とは、「人々が幸せになる」というその一点しかないだろう。

手順の伝達のときに、「目的」の共有から始めないと「手段」が目的化しやすい。いろいろな教育の問題があるが、実はこの「目的の共有」ができれば大半は解決できるのではないだろうか。

そのためには「一緒に考える」しかない。「幸せ」は教えられたらわかるものではない。各人それぞれ違ってしかるべきである。その人のオリジナルの幸せがあるはずだ。

探求学習とは、何を探求するのか。

それは、各人の「幸せ」なんだろう。「幸せ」というのが気になる場合は、「人類の生き残る術」に言い換えてもいい。

自分でも探求学習や問題解決型学習が大事!などとのたまっていたが、違和感をずーっとぬぐえなかった。

探求学習が「何を」探求するのか。初めて言語化できた気がする。

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