平和と自由を実現する唯一のスタート地点

ある日、「ナチスの軍服をかっこいいと着る人と出会う」という衝撃から個人のもやもやが生まれた。そのもやもやを友人と共有してみたら、「広島原爆の被害者の遺品を撮影したアート作品」をみたときのもやもやが重なって、今日、ゆんたくカフェという対話の場ができあがった。

詳しい対話の内容は割愛して、その対話の場の案内人をしながら気づいたことをもとに、さらに自分の中の思考を研いでいこう。

◇「自由」はどの立場から制限できるのか
誰かの自由を侵害しない限り、自由を認める。自由の相互承認として考えられている「原理」である。

では、ある人の行動が「それを受ける自分にとって嫌である」という主張によって、その人の行動の「自由」を制限しょうとするときに、私はどこに立っているだろうか。

例えば、「あなたのその行動は私の所有物を侵害する。なので、咎められるべきである」という主張がある。自分の身体・生命・財産が脅かされるときを考えてみると、非常にわかりやすい。平たく言えば「犯罪行為」だろう。法律、刑法の中に書かれ社会的に「犯罪」が規定されている。要は、その行動は「犯罪です」という名づけが行われたわけだ。

では、「法律違反」かどうかが明確でない場合はどうだろうか?

例にあったような、「ナチスドイツの軍服を着ている。ナチスドイツの残虐な行いを肯定していると私には見える。過去の残虐行為の肯定に対してはもちろん、この”かっこよさ”が残虐行為につながった過去から考えて、未来への不安を覚える」「なので」「あなたの服装の自由について、制限したい」。

ここで、いくつかの選択肢が出てくる。

「どこから」その人の自由について制限しようとするか、である。いわゆる「どの立場」からものを言うかが、肝になってくる。

例1)国際社会に属しているという立場
日本も国際社会に属している。ナチスドイツの行いは本国ドイツはもちろん、ヨーロッパ各地で悲惨な状況を生み出し、「ナチスをかっこいい」とするだけでも心的な侵害を受ける人がいる可能性がある。なので、あなたの表現の自由としての軍服の着用よりも、国際社会に属している人の心の自由を尊重すべきである。

例2)ナチスドイツはユダヤ人に対して残虐行為を行ったと学校で教わった。ナチスの人心の掌握術の一つは「かっこよさ」であり、安易に「かっこいい」という理由でナチスの軍服を着ることは安易にナチスの思想を「肯定」することになりかねない。そのままいくと、同じような悲劇が繰り返される可能性が高くなると感じている。なので、未来の人たちへの侵害可能性によってあなたの表現の自由は制限すべきである。

◇規定の権限はどこの立場にあるのか
話は少しそれる。対話の場では「アウトサイダーアート」の話になった。アートの訓練を受けていない人の「アート」というのがもともとの意味にあるようだが、日本においてはとくに知的障害者などの「アート」について言われることもあるらしい。

対話の参加者からは「アウトサイダー」というのは、どこから見たときの「アウトサイド(外側)」なのだろうか、という話が出てきた。結局、当事者ではない何者かが「勝手に」領域の外側であると命名し、境界を作っているのではないか、と。

ここで、池田清彦氏の「自由に生きるとはどういうことか」という話を補助線にしてみよう。池田氏はソシュールの「恣意性(主観的で自分勝手に決定されている)」を援用拡大し、「自由に生きる」とは「相手の恣意性を侵害しない限り、何をしてもいい」という言い方をしている(ただし、「能動的なものに限る」という条件がついている)。

言語はそもそも「恣意性」によって規定されている。どう名前をつけるかはまさに「自由」だ。しかし、「名前をつける」「区別をする」「境界を引く」ことで「内」と「外」が生じてくる。そして、どの「名前」を採用されるかは、往々にして「権力」によるところが大きい。

「アウトサイダーアート」という名前の付け方は(不勉強なのでもし間違っていたら恐縮だが)、「アートを正当に学んだもの(=内)」から見て、「アートを正当に学んでいないもの(=外)」という図式に見える。これは「アートを正当に学んだ」という権力がそういう名づけに表れているのではないだろうか。

◇「権力」による「制限」
最初の議論に戻ろう。「ナチスドイツの軍服を着てはならない」という「規定」を行ったとき、「どの立場から制限を行うか」が重要になるのではないか、と前に述べた。いいかえると、「どの権力から制限を行うか」ということと同じ意味になるであろうからだ。「立場」の裏には「どの理論」を使うか、という前提があった。前述の例1ならば「国際社会(とくにドイツ)」、例2ならば「日本教育の文脈」であろうか。

権力、というのは「影響可能性のある数」だろう。社会的にこしらえられ、多くの人が動くような、影響力のあるものを「権力」という。とすれば、今回のナチスの軍服への制限は、例1のように「国際社会」という(おそらく)支持者が多い立場から制限をかけるのが「有効」であろう。

例1よりは「権力」は落ちるかもしれないが例2もなかなか支持母数は多い。なので、「制限」はできるであろう。

そう、他人も賛同する「立場」からものを言うことができれば、「制限」することは容易になるのである。

◇「制限」から「説得」へ
しかし、本当に「制限」でいいのだろうか?これは、ただの「数の暴力」であり、身体的な侵害がないだけで、結局は価値観の押し付けであり、強い言葉を使えば強制である。

強引につなげれば、個人への戦争をしかけているのと、実は同じなのではないだろうか?平和な世の中を望むからこそ、ナチスの軍服について制限したい、のに、簡単に言ってしまえば、「ナチスの軍服を着ている人たち」に戦争をしかけ、「数」によって制圧する、ということと同じになっている。自分の考えを他人に実行してもらおうとするときに、どうしても「侵害」が生じているのだ。

私が好きな考え方に「革命は革命後の姿を先取りして行う」というものがある。これは内田樹氏の考えに触発されている。

今自分がいる場所そのものが「来るべき社会の先駆的形態でなければならない」というのはマルクスボーイであったときに私に刷り込まれた信念である。
革命をめざす政治党派はその組織自体がやがて実現されるべき未来社会の先駆的形態でなければならない。
もし、その政治党派が上意下達の管理組織であれば、かりにその党派が実権を掌握して実現することになる未来社会は「上意下達の管理社会」であり、党派が権謀術数うずまく党内闘争の場であれば、その党派が実現する未来社会は「権謀術数うずまく国内闘争の場」となるほかない。
蟹が自分の甲羅に似せて穴を掘るように、私たちは自分の「今いる場」に合わせて未来社会を考想する。
(http://blog.tatsuru.com/2009/05/13_1112.htmlより)

「平和な世の中」は「平和な手段で」実現されるべきである。「数の権力による制限」ではない方法で、実現しなければならない。

「制限」ではなく、相手に対して影響を与えるためにはどうすればよいだろうか?相手の意志に関わらずに、相手の思想・行動に影響を与えることを「制限」という。ならば、相手が自分の意志で行動を変更する分には「制限」にはならないだろう。

ならば、「説得」はどうだろう。「説得」に応じてくれればそれは自らの意志で行動を変更したことにならないだろうか。

ただし、よくよく考えねばならないのは「数の権力」を持った状態で、上から「説得」をしても、それは「制限」と変わらない。相手の中に「考え」が自ら生まれることが、解決の卵になる。

◇自発性が「平和」と「自由」の出発点
「数の権力」に頼らない「説得」というのは、自分の立場を、ただの「一個人」に置くことで成し遂げられる。相手を一緒に攻めるものもいない。同じように、自分を守るものはなにもない。ただの「個人」として、相手と向き合うときに「説得」ができるだろう。

「ある立場」から話すときは、「価値観」や「考え」を他人に預けられるため、自分の考えを変える必要はない。変わる可能性も低くなる。自分の考えが変わろうとしても、同じ「立場」の人が「おいおい、お前、変わっちゃダメでしょ」とまた元の「立場」に戻してくれるからだ。

「一個人」として向き合うということは、「自分の考えが相手と話すことで変わりえるかもしれない」という立場に立つことに他ならない。立場から話すよりも、ずっとしんどく、面倒くさい。しかし、この態度からしか「相手に強制もなく、一緒にものを考える」ことはできないのだ。

ここまで来て、ようやく、この思考の着地点が見えてきた。

回りくどく書いてきたが、要するに、相手の自由に対して、何か意見を言うときは「同じ立場に立つ」というただ一点が大事なだけである。

同じ立場に立つためには、相手の考えを知る必要がある。相手に関心をもち、その背景を調べていく姿勢を貫かねばならない。なぜその考えに至ったかを聞き、その考えは変更可能かを「調整」する。「対等な関わり方」が結局のところ「平和」と「自由」の出発点なのだ。

まずは、「一人で立つ」ということを訓練していけばいい。誰の言説にも頼らず、自分の目で見、耳で聞き、感じたことをもとに思考を組み上げ、それでいて変更可能な開いた心で接することのできる人間になる。月並みな話、自分自身が「平和」と「自由」を実現するしか、ないのだろう。

「自由」は「おのずから」「よし(由:理由)がわく」ことだと思っている。「平和」な状態とは、それぞれが無理がない「自然」のことを指すと考えていて、「自然」とは「おのずから」「しかる(然る)」こと。

この「おのずから」の状態を各々が実現できることができれば、「平和」と「自由」の実現が始まっていくのではないだろうか。

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