「聞くこと」は身体技法

今日も、大学生の友人たちとの対話会。

ひょんなことから、「どうやったら人の話を聴くことができるか」という話になった。人の話を聴くのが、つらいとか、どうも「へたくそ」な人がいるようね、という話題であった。

集まった3人は、「よく人の話を聴く側に回る派」と自認していた(公平性を期すならば、まあ、ほかの2人から見てもそうかも、とは思えるほどに)。いつの間にか聞き役になっていることがある、と。

なんでだろう?と共通点を探っていくと、実は意外なことが一緒だったことが明らかになる。

3人とも「おしゃべり」だったのだ。

◇「おしゃべり」と「聞き役」は案外矛盾しない
自分たちは「おしゃべりである」のに「人の話を聴くほうに回りがちである」という自己認識。

3人が3人とも、「自己認識がずれている」可能性もあるが(本当は聞けていないのだが、聴いているつもりになっている、とか)、どうもそうではないような気がする。

よくよくとその「おしゃべり」を分解していくと、どうも「家族に対してべらべらとよくしゃべっていた」ということが同じでありそうであった。

いうなれば「家族の脳みそを借りている」という状況が共通していたのだ。

幼少期に家族に丁寧に聞いてもらうことで、「聴くリズム」が身につく。これは、ダンスや音楽の「リズム」と似たようなもので、「体得」するしかない。

適切なタイミングで相槌を打つ。相手の話に対してリアクションをとる。そして、いいところで質問することでその先を促す。

これらは「考えて」行うことではなく、まさに楽器を奏でるように「ここ」というタイミングで身体が動くような「身体技法」だったことに、気づいた。

「聴く」とは「身体技法」だとするならば、何が言えるのか?

ナチュラルボーンリスナーでない限り、「訓練」しなければならないということである。

訓練の仕方は、まず「聴ける人」にきちんと話を繰り返し繰り返し聴いてもらうという体験が必要なのだろう。そうすると「聴くときのリズム」というのが、身体の中に覚えることができる。

とすれば、人は「聴いてもらう」体験がないと「いい聴き手」にはなかなかなれないということだ。

だから、実は「自分自身がおしゃべり」な人のほうが「よい聴き手」になれる可能性を持っているのかもしれない。

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