究極のラーメンにたどり着くには

今日は、10代の友人たちと対話会。といっても半数以上が初対面。でも、いちゃりばちょーでーだから、もうきっと友達(たぶん)。

今日の対話会の根底に「自分はどんな基準をもって生きればいいか?」というのが横たわっていたと思う。その悩みはそれぞれ「人生の目的は?」「学校という”正解”が決まった場所ってなんだろう?」「1対1でのコミュニケーションの距離感」「生きる上での羅針盤」という形で言葉にされていた。

では、「あなたの生きる上での基準はなんですか?」とダイレクトに問えばいいのか?おそらく、それだけだと何が言いたいのか、どんなことを伝えたいのかは迷子になりやすい。

そこで、以前、高校生たちと話しているときに、こんな例えば話をしたことを思い出した。

「究極のラーメンを作りたい?食べたい?」

私は、究極のラーメンを作りたい。そして、自分が「究極」だと思えるものならば、それでいい。

しかし、中には「ラーメンを仲間とシェアしたい」という意見も出てきて、ひとつのたとえ話だが、なかなかそれぞれの価値観が表れて面白いのだ。

案の定、今回も多種多様な意見が出てきた。

一人は、「自分で作ったものを食べてもらって、フィードバックをもらいたいlといった。

一人は、「食べたいと思わせてもらえるような一杯を探したい」と。

一人は、「究極のラーメンをツールにして、仲間が集まる場を作りたい」。

一人は、「スープは自分でつくって、麺や具はほかの人に作ってもらう」。

一人は、「ラーメンが入る器を作る」。

見事にそれぞれの価値観が出ていた。

それぞれをなんとなく整理すれば「他者ー自分」「モノーコト」に分かれているような気がする。

「他者」が大事であれば、フィードバックや集うことに価値をみるかもしれない。「自分」ならば、「自分が納得するかどうか」に比重がある。

「モノ」ならばなにかプロダクトを創り出すこと、プロジェクトを立ち上げること。「コト」ならば、その場での体験、雰囲気。

もちろん、ばっつりとこれで分けられるわけではない。大事なのは「何を大切にしたい」のかを言語化できることである。

理想の状態を考えたとき「欠けてはいけない必須項目」があぶりだされてくる。自分にとっての致命傷がなんなのか、どんなときに頑張れなくなるかが見えてくる。

これは、実は「やりたいこと」を見つけるよりもかなり重要なことである。それでも、まさに「学校」ではなかなか教えてくれない(むしろ「やりたくないこと」をいかにやらせるかに注力される)。

では、どうやって自分の「やりたくないこと」を見つけるのか?逆説的になるが「やりたいこと」をするしかない。そして、徹底的に言語化していくこと。

「べつに」「ふつう」「やばい」は程度がわからない。そして、「何が」「どう」なのかの区別ができない。

自分自身でもわからないものを、どうやってコントロールしようというのか。

「究極のラーメン」にたどり着くためには、「やりたいこと」「心が動くこと」に挑戦していき、「何が」「どう」面白かったのか、つまらなかったのかを言葉にし、次に来たときに取捨選択できるようにすることが大事なのだ。

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