はじめまして畏まっちゃって

代用の具としての言葉、即ち、単なる写実、説明としての言葉は、文学とは称し難い。なぜなら、写実よりは実物の方が本物だからである。単なる写実は実物の前では意味を成さない。単なる写実、単なる説明を文学と呼ぶならば、文学は、宜しく音を説明するためには言葉を省いて音譜を挿み、蓄音機を挿み、風景の説明には又言葉を省いて写真を挿み、(略)、そして宜しく文学は、トーキーの出現と共に消えてなくなれ。単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい。
 言葉には言葉の、音には音の、そして又色には色の、各代用とは別な、もつと純粋な、絶対的な領域が有る筈である。

坂口安吾「FARCEに就いて」https://x.gd/f5uON

映像が好きなのは、言葉にはできない繊細な湿度だったり時間の流れを感じるからで。写真が好きなのは、あまりにも平面的な一瞬の切り取りに、強いエネルギーを感じるからで。音楽が好きなのは、人間の起源から備わっているリズム感に抗えない調和性を感じるからで。それぞれの絶対的領域を私なりに感じ取って、それが自身の好きと繋がっていることは確かであると思う。

でも、なぜ言葉が好きなのか。
そう考えたときにあまりにも思い浮かばなかった。言葉にしか表せられないものがあると確信はしているけど、それが何かがはっきりとしない。靄がかかった冷たい山の中を少ない酸素で慎重に息をするみたいに、美しさは感じているはずなのに、それ以上の予知できないスケール感と、その人間離れした存在感に呑み込まれやしないかと怖くなる(言葉は人間が吐き出しているものだから、人間離れというのは可笑しいけど、人間が手元で扱い切れないと確信してしまうほどの複雑さがあるとどうしても感じてしまう)。
言葉は言の葉と書くけれど、ただ一本の木に言葉が生い茂っている、そんな可愛いものじゃなくて、もっともその木が何千本何万本と連なって圧倒的な森を形成しているのであって、私はその中をゴールもわからずただ彷徨い歩いているのだ。

なぜ言葉が好きなのか。なぜ言葉なのか。

それが分かった時、その森から私は抜け出せているだろうか。
(きっと抜けたその先にもまた森が広がっていて、項垂れるのに歩く足を止められないのがオチだろうと思うけど。)



まだまだなんにも知らないけど、自分の思いとか考えが少しだけたくましくなった気がするし、定期的に何度も読み返しておきたい大事な参考文献。
初めてのnoteは坂口安吾「FARCEに就いて」から

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