第1話 母たち

 咲は携帯電話の着信履歴をチェックしながら夕日に照らされた廊下を歩いた。
 しんと静まり返った教室に、咲にメール受信を告げる着信音が響いたのは、今日の午前最後の授業時間だった。咲は有無を言わさず携帯電話を没収されてしまった。放課後取りに来るように言われ、職員室で注意を神妙な面持ちを装って聞いた後、次はないようにすると平謝りして咲はやっと解放された。
 咲は自分に恥を掻かせた犯人を捜した。授業に遅れそうになって携帯を確認し忘れた自分に非があるものの、授業中にメールを送ってきた相手に一言文句を言わなければ腹の虫が納まらなかった。しかし、まもなく犯人を特定した咲の腹の虫は、その気力を萎えさせた。
「お兄ちゃん」
 思わず咲はため息交じりに犯人を呼んだ。
「またお兄さんから?」
 咲を下駄箱の前で待っていた幼馴染の原田由美が笑顔を向けると、咲は脱力して頷いた。咲と由美が出会ってすぐに仲良くなったことで、二人の家族も身近な存在となり、今や家族ぐるみの付き合いがあった。
「昔から仲いいよね」
「お兄ちゃんたら心配性なんだもん。高二の妹に何兄馬鹿やってんだか」
「咲のことがかわいくってしょうがないんだよ」
「いいお兄さんだと思うな。塾でも人気あるんでしょ」
 良広は塾講師のアルバイトをしている。教職を希望していたようだが、最近では塾の講師も満更ではない様だ。
「鼻の下伸ばしてるだけでしょ、ロリコンだから。あんなので良かったらいつでもレンタルするよ」
 良広の受け持つ授業の受講生は、女子生徒が多かった。良広が働く塾ではアンケートで自分の教わりたい講師を指名でき、その希望がクラスに反映される。つまり、良広は間違いなく女子生徒に人気の先生なのだ。若くて、それなりに英語や数学を教えるのが上手いことは妹の咲が認めるのだからこれも間違いない。ただ、その要素はアルバイトの学生が兼ね備える長所だと咲は良広に反感を覚える。おそらく、しっかりしていそうな外見にと間抜けな中身のギャップに、母性本能を擽られる女の子が多いのだ。咲はそう思うことにしている。
 外に出た二人の息は白かった。どちらともなく「寒いね」というこれもやはりお決まりのセリフを口にすると、二人の視線は自然に色づいた木々を捉えていた。コートはまだ要らずとも、そろそろマフラーが恋しい季節である。
「咲は長崎生まれなんでしょ?」
 咲は小さく「うん」と答えたが、生まれてすぐにこちらに引っ越してきた咲にとって、長崎での記憶は皆無でだった。しかし自分の生まれた場所というだけで、咲は長崎という地名を聞くとどこか懐かしさを感じずにいられなかった。
 何か大切なものを置いてきてしまったような寂しさや、何か大切な思い出があったような温かさを感じてしまうのだ。
「きっとあっちはまだ暖かいんだろうね」
「たぶん。でも最近異常気象で騒いでるから、どうなんだろうね。その内気候が逆転しちゃったりして」
「ああ、温暖化は話題になってるね。雪も降らなくなっちゃうかもね」
でも、今年は間違いなく降りそうだ。そんなことを話しているときだった。
風が吹き抜けるたびに肩をすくめながら歩く二人の横を、何か黒いものがひらりと舞った。二人が思わずそれを注視して足止めてしまったのも無理はなかった。
 その黒いものの正体は季節外れの蝶だった。
「珍しいね」
「大きな蝶だったね」
名残惜しそうに、由美は蝶の消えた街路樹を振り返った。
「最悪。昔からチョウチョ大嫌いなんだよねー。あんな気色悪い虫が好きな由美の趣味は分かんないなぁ」
「虫が好きなわけじゃないよ。蝶って何か希望がもてるでしょ。だから綺麗でかわいいなって」
「そう言われてみれば、けっこうけなげなのかもね」
虫への嫌悪感を払拭できなかったが、咲は笑顔でそう答えた。
そういえば、由美がいじめにあい始めたのも、蝶が舞う季節だった。咲にとっては御節介でしかない情に厚い兄と共に、由美の相談に乗ったこともあった。この時の由美は良広の優しさに救われていたように見えた。由美に笑顔が戻ってうれしい反面、良広に由美を取られたような悔しさがあったのを今でも覚えている。確かこの頃からだった。良広を見る由美の目が変わったのは。
咲は一抹の寂しさを隠して、由美とのいつもの会話に興じた。
そんな二人の少女の様子を、木の葉の陰にじっと息を潜めて見る者が在った。大きな一対の瞳にはいくつもの少女達の姿が映っていた。
―――――けっか…
季節外れの黒い蝶は、静かに二人の後を追った。
 


誰かに羽交い絞めにされたような感覚を覚えた咲は、不意に立ち止まって振り返った。しかしそこには誰もいない。ただ炎をともしたたいまつのような街路樹が、続いているだけである。
――――つかまえた
「どうしたの?」
 突然立ち止まって動かなくなってしまった咲に、不思議そうな顔をして由美は問いかけるが返答はない。咲が見つめている先ほど通ってきた道を由美は咲と同じように見つめてみたが、いつもと変わらない風景が広がっているだけだった。
「さっき、誰か私の肩をつかんだように感じたんだけど…」
「気のせいじゃない?」
 表情を硬くしたまま、「たぶん」と小さく自分を納得させるようにつぶやいて再び歩を進める咲の背中には、黒い蝶が張り付いていた。
 自宅の前で由美と別れた咲は、股にもぞもぞとした妙な感覚を得て自宅トイレに駆け込んだ。生理は先週に終わっていたため、今まで感じたことのないこの気持ちの悪さに咲は思い当たる節がなかった。たまらずスカートの裾を持ち上げると、中から黒い影が飛び出てきた。一体いつの間にスカートの中に忍び込んだのか、その正体は帰り道で見かけた季節外れの蝶である。
 咲は驚きの声を上げる間もなく、自分の股間を押さえて壁にもたれるとそのままずるずると壁伝えに膝を折った。その下腹部と股間に熱を帯び、軽い尿漏れを起こしたかと思う湿気がショーツにある。何かが、自分の中に入ってくる。そんな感覚が、咲背筋を冷たくしたが、股間の熱が全身に回って、意識が快楽に支配されるまでにそう長くはかからなかった。咲は体を痙攣させたかと思うと艶かしく喘いだ。
 不意を突かれて無防備だった咲は突然訪れた快楽に抵抗する術もなく、何かがおかしいと思ったときにはもう快楽に身を任せてしまっていた。
 股を開いていないとその間から染み出てくる粘り気のある液体のせいで気持ち悪かった。息が乱れ、荒い呼吸のせいで咲の口の中が乾ききろうとしたとき、黒い蝶は美しい裸体の女性へと姿を変えた。潤んだ瞳に熱の帯びた光を宿らせて、乱れた制服や髪に気を留めずに快楽に溺れる咲を見下ろして、女性は満足そうに微笑んだ。その背に生えている四枚の翅が、女性の正体をあからさまに示している。それでも咲はこの女性を異様な存在と感じなかった。むしろ自分を全ての苦しみから救い出してくれるような女神のようだと咲は頭のどこかで感じていた。
 咲は至上の快楽と強烈な母性に包まれながら、この世のものとは思えないほどの美女と戯れているつもりだったが、傍から見ればこれほど気味の悪い絵はなかった。
強姦された後のように乱れた少女が笑いながら座り込み、その顔の上を大きな黒い蝶が這い回っているのだから。
――――血華、ドコ?
 黒い蝶はガラスを通り抜けて外に飛び去った。
 しばらくしてようやく快楽の興奮から抜け出した咲は、自分が思ったよりも疲れていることに気づいた。気力も体力も衰弱している。胸や足を大きく露出して汗ばみ、冷たい床の上に座って長い間いたものだから体がすっかり冷め切ってしまった。尿漏れしたように濡れたショーツだけは、陰部の熱で生暖かい。片方の手をショーツの中に突っ込み、もう一方の手をお腹に当てて咲は笑みを浮かべた。
 咲の子宮には、新しい命が宿っていた。
 制服と髪を整え、トイレットペーパーで陰部を拭いて水に流した咲は、階段を上って自室へと向かった。いつもより階段を上りにくく感じるのは、まだ下半身が快楽の余韻を引きずっているからだ。普段よりも時間をかけて二階へ上った咲は、自室にあるドレッサーの前に座って自分が今までしていたことを反芻してみた。しかし結局最後には、今まで自分が不潔に思ってきた性的快楽とはなんと心地よいものなのだろう、と陶酔するに至った。薄暗い部屋の鏡に映る咲の顔には、まるで貼り付いたかのように笑みが残っていた。
 制服から私服に着替えようとすれば、最近買ったばかりのスカートのファスナーが上がらない。いつもはこんなことがある度に太っただのダイエットだのと散々喚き散らしていたのだが、今回ばかりは無言である。喚くどころか唇の両端を吊り上げて笑っている。目で見ても分からないくらいわずかに膨らんだ自分のお腹をいとおしげに見つめ、優しく撫でる姿はまさに母の姿である。
 「咲、いないのか?入るぞ」
長身痩躯をスーツに包んだ青年が、咲の部屋のドアノブに手をかけた。ほんの少し押し開けられたドアの隙間から延びた光の筋に気が付いた咲は、あわててドアを閉めた。大きな音を立てて閉まったドアに、危うく青年はつま先を挟まれそうになった。
「お兄ちゃんの変態。ノックぐらいしてよ、バカ」
「何回もしただろ。夕食、バイトの帰りに買ってきたから一緒に食べようと思って。メール、見たんだろ」
良広が授業中に送ってきたメールの内容は、両親が残業で帰りが遅くなるため夕食は良広が買ってきてくれるということだった。咲は「メール」という言葉に、忘れかけていた怒りを思い出す。はけなくなったスカートをクローゼットにしまいながら、咲は腹立たしさをドア越しの良広にぶつけた。授業中に一斉に向けられた迷惑そうな、または面白がっていそうな視線の痛さ。初犯ですぐに謝ったにもかかわらず、教師の得意げな説教に一時間近く付き合わされたこと。思い出すだけでも胃が痛くなる。
「お兄ちゃんのせいだからね」
 咲は散々歳の離れた兄に当り散らした後、良広の前に出て睨み付けると、良広はそんな咲を見下ろしてあきれたように「それは電源を入れてたお前が悪い」と返す。その言葉にまた言葉を捜す羽目になり、さらに腹が立った咲きは口先をとげて「授業中だったのに」、と言い返した。
「授業中でもいいって言ったのはお前だろ。いつも授業中だったし」
この言葉に、ついに返す言葉がなくなった咲は目の前の良広を押しのけて階段を下りた。向かった先はトイレである。
 コンビニの弁当を電子レンジにかけている兄をちらりと横目で見ると、咲はダイニングテーブルに腰を下ろした。トマトソースの香りから、良広が自分のためにミートソーススパゲティを買ってきたと予想を立てて待っていると、その予想を裏切ることなく咲の目の前に円形のプラスッチク容器が頭に思い描いたとおりのメニューを乗せて目の前に差し出された。黒くなったバーコードシールと湯気で内側に水滴が張り付いて見にくくなったスパゲティを見た咲は、味を視る前に何か物足りなさを味わった。咲は、オレンジ色の光に照らされながら電子レンジの中で回る容器に目を移した。黒いプラスチック製の丼である。
「お兄ちゃん、何買って来たの?」
「牛丼」
「交換して」
牛丼という言葉に妙に食いつく咲をいぶかしんだ良広が新聞から顔をのぞかせると、もう咲はスパゲティを差し出している。
「いいけど、ダイエットはどうしたんだよ」
「やめた、やめた」
「三日坊主だな、相変わらず」
半ば強引に押し付けられた円形容器を良広が受け取ると、交渉成立を告げるかのような絶妙のタイミングでレンジが鳴った。良広は半額シールの付いた牛丼を咲に渡し、食べ慣れない麺を啜った。咲は口の周りを人でも食ったように赤く染めながらスパゲティを食べる良広を見ているうちに、メールの一件を忘れて由美の言うようにいい兄なのかもしれないと思った。


 
咲が寝静まった後、良広は仏間のたんすの一番奥の引き出しを開け、奥にしまってあるお菓子のスチール缶に手をかけた。箱は母親宛の封筒に満たされている。ただし、差出人は不明である。どれも同じ茶封筒であるが、中身も全く同じだから気味が悪い。中身は一枚の写真と脅迫文。おそらく精神的に追い詰めるために同色同系の封筒を使っているのだろう。差出人はかなりこの手口に慣れていると良広は思った。写真には母親の女としての顔が写っていて、脅迫文には高額な現金の請求が添えられている。
 この封筒の差出人が母親の元不倫相手からのものであることは、当事者の母親と封筒を不審がって開封してしまった良広のみが知ることである。今のところ咲と父親は、奇跡的ながらもこの封筒の存在に気づいてはいないようである。
 後ろめたさを感じつつ、良広は今日も郵便受けに入っていた差出人不明の茶封筒を箱の中にしまった。母親に肩入れするつもりは微塵もなかったが、短期出張中に妻に裏切られたとも知らない父親はまだ妻を良妻としてみており、咲も自慢の母と見ているだろう。それらを考えると離婚という事態も起こり得るこの秘密は、良広にとって守るべきもののように感じられた。出来ることなら表面だけでも家族円満でいたい。そう願いながら良広はたんすの引き出しを閉めた。
 「ただいま」
 だるそうな声では母親が帰宅したのは二十二時を少し回ったころだった。もう一時間もすれば父親も帰ってくるだろう。
「また来てたけど、本当に相手とはもう何もないんだろうな?」
 この話題に、主語をつける必要はなくなっていた。母親は良広から顔を背けて「何もないわよ」と早口に言った。だが母親の靴はいくら足をすり合わせてもなかなか脱げない。結局手を使って剥ぎ取るように脱い靴をそろえることもせず、母親は良広の脇を強引に通り抜けた。良広としても自分の母親を信じたいという気持ちがないわけではなかったが、事が事なだけに一度抱いた不信はそう簡単に払拭されるわけではなかった。第一今も家族をこうして息子とともに欺き続けているというのに、妙に苛立って自分の汚点を隠すことに終始するだけで自ら進んで行動を起こさない。警察にも、父親に知られるのを怖がって被害届けを出していない。相手からの郵便物を見たときの狼狽振りを見て、良心の呵責に耐えられないなら父親に謝ろうと良広が提案したこともあったが、ついに母親は首を縦には振らなかった。ちゃんとご飯は食べたのかなどと言いながら、話をそらそうとする母親に苛立ちを感じつつも良広は冷静を装って話題を元に戻した。
「本当に一回きりだったんだろうな」
「本当よ」
 間髪入れずに叫ぶように言った母親は、はっとして俯き、口元に手を当てた。男と会ったのは一夜限りで、それ以来男との連絡はつかなくなってしまった。携帯電話の番号は既に変更されており、メールもアドレスを変えたらしく送ることが出来ない。手紙を送ろうにも住所は偽りであった。そうこうしているうちに例の封筒が届くようになり、そこで初めて騙されたのだと分かった。「まさか自分がこんなことになるなんて思ってなかった」と蒼白な顔をして言う母親を良広は冷たい目で見て、自業自得だと心の中で毒づいた。
「若い振りして、出会い系サイトなんかやってるから悪いんだろ。あっちは母さんみたいなのを金ヅル程度にしか思ってないんだよ」
 出会い系サイトももうやってないだろうなと念を押すと、母親は強く手を握り締めた上に目を充血させ、二度とやらないと答えた。反省の態度とは違った反応だったが、本当かどうかは相手からご丁寧に通知が来るのだからと良広は無理やり自分を納得させ、何とか納まりの悪さをやり過ごす。同じ男として、父親が不憫でならなかった。
「どうしてこんなことになったのかしら。仕方ないことだったのかしら」
 わずかな沈黙の後、母親は呟いた。思わず声を荒げそうになった良広は、深いため息をついた。それはもう母親に対する憤慨というよりは、自分の徒労に対して出たものだった。
 良広は眠りに就こうとしていた布団の中で、父親の声を聞いた。帰ってきたな、と思ったころには夢か現かはっきりしない中で両親の会話を聞いていた。優しく明るい声で夫を迎え入れる母親の声はまさしく「良妻賢母」であったが、母親が良き母良き妻振りを見せるほど良広は母親に対して嫌悪感を抱いた。
「何だ、二人とももう寝たのか」
「ええ。咲は明日学校に早く行くんですって。良広も疲れたからってついさっき」
母親の苦笑と、夜更かししないのはいいことだと答えた父親の笑い声が重なった。
「良広が咲と夕食済ませてくれるんで助かるわ」
「職がないからといっても、良広がいてくれると助かるな」
良広は最後の父親の台詞と、その後母親が口にした「本当にね」というやりとりを皮肉と感じつつ、眠りに落ちた。
 だから、良広はこの後の両親のやり取りを知らなかったのである。
 
「ちょっとお前に話があるんだが、これは何だ?」
そう言いながら、父親が会社の鞄から取り出したのは一通の茶封筒である。差出人の名前やあて先はなく、ただ「大森清美様」と印刷されていた。ダイニングテーブルの上に置かれた茶封筒が何であるかを察した大森清美こと良広たちの母親は、先ほどまでの笑顔を引きつらせて凍りついた。
「わざわざ会社に電話をくれた相手は、こちらの出方次第ではこれを近所にばら撒くそうだ」
 顔をこわばらせたまま封筒を凝視して夫の言葉を聞いた清美だったが、やがて観念したようにうなだれて「すみません」と謝罪の言葉を口にする。そして仏間のたんすから例の手紙の詰まった缶箱を持ち出して夫の前で開いた。箱の中の有様を見て絶句する夫の顔を見ていられず、清美は目を伏せた。
「ごめんなさい。あなたに黙っているつもりはなかったの。ただ、良広に先に見つかってしまって、咲がかわいそうだから言うなって」
 初めて郵便受けに例の封筒が投函されたのは、父親が出張先から帰ってくる前日のことだった。最初にその封筒を見つけたのは家にいることが多かった良広で、封がなされていなかった封筒からふとした拍子に中身が出てしまい、良広は母親の醜態を知ることとなった。そこには母親の女として顔が写っていた。その日の夜に散々息子になじられ、責められた母親は息子立会いの下、相手に脅迫をやめてもらえるように連絡を取ろうと様々な手を尽くしたが、ついに連絡は取れなかった。一夜を共にしてから連絡が取れず、それでも愛人を信じていた母親が騙されたと気付いたのはこの時であった。そんな母親を息子はますます責め、結局二人で話し合った結果、相手がいずれあきらめてくれるまで無視し続け、咲や父親には咲の進路が決まり落ち着くまで黙っていることにしようという結論に達した。
「良広を責めないでやってください。あなたに知られるのが怖くて、自分がしたことが信じられなくて、どうしていいか分からなくなってしまっていた。ごめんなさい、ごめんなさい。あんなに私のこと家族に説得してくれたのに」
涙を浮かべる妻に、父親はただ「そうか」と短く答えるのがやっとだった。父親にとって今まで信じきっていた伴侶の裏切りに、腸が煮えくり返る想いだった。それと同時に同じ家に住んでいながら易々と騙されていた自分がひどく情けなかった。誰もいなくなったダイニングで父親は一人、普段はあまり飲まない酒を飲んで夜を過ごした。
 
翌朝、咲はトイレに走った。昨夜一人で情事を楽しんだせいで、股の間がべとついていた。一人で性的快楽を楽しむとはどういうことかは、咲にもよく分からない。ただ咲が、地獄蝶に出会ったときの気持ち良さをまた感じたいと望めば、まるで愛し合った異性に抱かれているような快楽と幸福感が訪れる。トイレから自室に戻ると、部屋にすえた臭いが充満していた。それにも関わらず、咲はこの日の朝を今までにないくらい清々しい朝と感じて背伸びをしたのだった。
「おはよう。いただきます」
 慌しく椅子を引いて席に座った咲は、目の前のミートボールに口の中に掻き込んだ。とろみのあるミートソースのたれが、空っぽの腹にはたまらなく美味しかった。
 ご飯に味噌汁、ミートボールにポテトサラダ。
 

一通り朝食のメニューに目を通した咲は、箸をとめた。どれも美味しそうには思えない。空になってしまったミートボールの皿に目を落とした咲は、さっきまで五つか六つあった茶色の肉の塊が名残惜しかった。
「ほら、今日は早く学校に行くんでしょ。さっさと食べちゃいなさい」
咲が見つめていたたれの付いた皿を取り上げながら母親が急かすので、咲は味噌汁でご飯を流し込み、サラダには手をつけずに席を立った。
「もう食べないの?」
「うん、遅れそうだから」
部活の朝練習で学校にいつもより早く行かなければならないというのは、ただの口実だった。本当は昨日由美にメールで、会って話がしたいから明日早くに学校に行こうと咲が持ち掛けたのだ。
「じゃあ、行ってきます」
 咲の食器を片付けた母親は、娘が出かけたのを見計らったかのように降りてきた足音に身を硬くした。

 学校までの道のりを、他愛もない話で過ごした二人は誰もいない更衣室へと向かった。朝早いせいもあり、そんな二人の姿を見たものは誰もいなかった。天井近くに申し訳程度にある小さな窓から、頼りなく光が差し込んでいた。寒く静かな更衣室は、まるで徐々に慌しくなる教室側の校舎とは切り離された空間だった。
「話って、またおばさんの事?」
浮かない表情の咲の様子に勘が働いた由美は、小首を傾げて見せた。咲の最近の悩みといえば、咲の母親が不倫しているかもしれないということだろう。咲が由美に預かってほしいと言って、例の封筒を渡したのはほんの一週間前くらいであった。単なる悪戯だろうと由美が何度慰めても、聡く純粋な咲は、自分は母親だけでなく兄にも騙されていたのだとひどくショックを受けていた。
「うちのお母さんは、汚いから嫌い」
壁一面のロッカーを背にした咲は、吐き捨てるように言った。
「そんなことないよ。まだ本人に確認してないんだし」
「由美は、いつもうちの母親の肩持つけど、由美が母親になったら不倫なんてしないよね」
「咲のお母さんも私も、不倫なんてしないよ」
窓がなく薄暗かったため表情の細かいところまでは分からなかったが、「そうかな」と答える咲の声がいくらか弾んで聞こえたので、由美はもう一押しとばかりに言葉を続けた。
「私は一人っ子だし子供が好きだから、子供がいっぱい欲しいな。でもまだ先の話だし、今から母親を嫌悪しちゃ駄目だよ。きっとすごいことなんだから」
由美が悠長に笑いながらそう言い終わるや否や、咲は突然由美を後ろから羽交い絞めにした。由美は一瞬咲が話題に照れてじゃれてきたのかと思ったが、咲の腕に込められた力が尋常ではないことに気づき、にわかに恐怖を覚えた。
「由美の夢、叶えてあげる」
咲の冷たい手が制服の下に滑り込んできて、由美の肌を撫で回した。
「子供がほしい。みんなも、由美も」
咲は意味の分からない言葉を口にして笑った。由美は直感的にこれが咲ではない何者かであることを理解し、震え上がった。咲でありながら咲ではないこれは、この世では明らかに異質な者であった。それはあたかも死そのものの具現であるかのようでもあった。声も上げられず、咲から逃れることも出来ず、常に小刻みに、時に大きく震える由美の体は咲の思うままだった。咲の細い指先が伝えてくる官能に伴う恐怖は、まるで地獄に引きずり込んでいかれるようであった。咲の陰部からはまるで男のように何かがぶら下がっている。しかもそれは細長く、芋虫のように白くうねっている。由美の無抵抗な体を扱って制服を剥ぎ取った咲は、自分の陰部を嫌がる由美の陰部に強引に押しあてて芋虫を由美の子宮近くまで入れた。この痛みに耐え切れなくなった由美が唯一あげた喘ぎ声も、上から覆いかぶされた咲の唇に塞がれて、外に漏れたのはほんのわずかだった。咲が由美から離れると、咲の股の間にはもう何もなかった。咲が何事もなかったように更衣室を出ると、由美もまた、しばらくして何事もなかったかのように身だしなみを整えて咲の後を追ったのだった。ただ由美の顔にもまた、張り付いたかのような不自然かつ不気味な笑みがあった。
 

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