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お土産はもういらない

午後が休みだったので、街に出るついでに図書館へ寄って超ローカル本(小学校で使う地域の歴史や経済のテキスト)や、Twitterの近しい界隈で話題になっていた(?)斉藤倫さんの『ポエトリー・ドッグス』など四冊を借りてきた。果たして退去までに読み切れるだろうか?

そして街へ出るとついついお土産を買ってしまう。元々頂き物の柿があまりにも多いので家族や知人に送ろうと思っていたのが、ついつい他の土産も探して箱に詰めてしまう。正直食に関してはありがたいことに飽和状態で、わざわざ買うまでもないのだけれど、なぜか買ってしまう。

自分は比較的「お土産」をよく買うタイプだ。せっかく新しい土地に行ったのなら、その土地らしいものを買ってみたいと思う。それは相手のことを考えてというより、自分が買いたいから買っている、という方が大きい。
しかし考えてみると、別にお土産を買ったからといって「その土地らしいことをした」ということにはならないのかもしれない。確かに地域の代名詞的商品はどこにでもあるのだけれど、そこに住んでいる人たちは案外食べたことがない、というものもあったりする。そういう「観光客向け」的なものに踊らされるのもちょっと嫌な気はする。

以前にも書いたけれど、その土地によって「見るべきもの」とされていたり「食べるべきもの」とされているものがある。
なぜそういったパッケージ化されたものばかりに注目してしまうのだろうか。それは多分、全く見知らぬ土地を訪れて、いったい何をすればいいのかが分からないからだ。ぶっちゃけていうと何をしようが自由ではあるんだけれど、それではいまいち納得できないというか、不安になってしまう。だから「こうしましょう」という指針に縋ってしまう。これも暇倫的な話。


何はともあれ、すでに3〜4日分の給料をお土産にぶっ込んでしまっている気がするのは正直我ながらどうかと思うのである。確かにやることは少ないかもしれないけれど、その矛先が散財に向かうのはあまり良い傾向ではない。この辺で少しセーブしていきたい。もう土産はいいです。


一つの区切り

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基本的には日記ですが、たまに深いことを書いたり書かなかったりします。分量で著者の疲労度が測れます。

少し遠くに行ってみよう。人生が変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。あるいは変わったとしても、気づかないかもしれない。だから、何か…

昔々、あるところに読書ばかりしている若者がおりました。彼は自分の居場所の無さを嘆き、毎日のように家を出ては図書館に向かいます。そうして1日1日をやり過ごしているのです。 ある日、彼が座って読書している向かいに、一人の老人がやってきました。老人は彼の手にした本をチラッと見て、そのま