見出し画像

べきじゃない自分

自分はここにいるべきではない。
生きているべきではない。


そういう「べき」からは脱出できたものだと思っていたけれど、最近またそうした思考が頭をよぎるようになった。口に出しては言わないけれど、行動や態度の節々に、そういった気持ちが表出しているような気もする。
 たぶん、「死にたい」よりはちょっとマシ、ぐらいの感じだと思う。「生きているべきじゃない」は文面的に「死にたい」とほぼ同じように見えて、「死」と言ってないだけまだ健全なところに留まっている。いやどっちにしろ健全ではないが。

冒頭の言葉に共通しているのは、「今いる場所・状況に対して違和感を抱いている」ということである。最近色々と環境の変化が大きすぎて、心が全然ついていけてないのかもしれない。

ある人と話しているときに、「ちょっと謙遜しすぎじゃない?」ということを指摘された。どうやら褒められると必ず「いや、そんなことはなくて」と否定してしまっているらしい。確かに思い当たる節はあるというか、思い当たりしかない。謙遜もいいけれど、あまりやりすぎると相手に対して失礼な場合もあるのではないか、との指摘。完全に盲点だった。
 自分が謙遜セルフ下げマシーンと化してしまうのは、第一には褒められ耐性の無さが原因である。おそらく「そんなことないですよ」と言いつつ内心は嬉しさや照れで複雑な心境になっていて、それを素直に表現する術がない故にとりあえず謙遜してしまうのだ。
 しかし一方で、本当に「そんなことない」と思っている部分もあるかもしれない。例えば、楽器をやっていることについて褒められたとする。だが、自分としては楽器で遊んでいるだけであり、それを素直に受け取ってしまうのは、真剣に音楽に向き合っている人に失礼なのではないかと感じることもある。
 ただこれは、裏返せば「楽器できる人」に対するコンプレックスも多分に含んだ感情かもしれない。

あるいは、自分の中にある「努力観」も一つの理由かもしれない。努力を「能動的であるほど良い」と考えている部分がある。つまり、自分みたいに何となくラッキーが重なって今の状況にある状態を、正当に評価できないのではないか? と思っていそうなのだ。
 こういう考え方は自分だけじゃなく他人も貶めてしまうような気がするが、人に対して「あの人の努力は正当じゃない」なんて思うことはまずない。そもそもそういうのって外からは見えないものだし、何より他人の芝はいつだって青いから。いや、自分の場合はもうエメラルドグリーンぐらいに見ているかもしれない。結局そうやって前評判的なものばかりで他者を見てしまうのも、自己評価を際限なく下げてしまう原因なのだろう。


話がだいぶとっ散らかった上にのり弁みたいな文章になってしまったけれど、とりあえず今一番思うのは「謙遜しすぎ」と指摘してくれたことへの感謝である。褒められるより「〇〇と思う人もいるんじゃない?」と言われる方が心に響くので(やっぱり、そうなのだ)、こういう指摘をしてくれる人がいることは本当に幸せなんだなと思う。
もうちょっと、人のことも自分のこともじっくり、少し視点を変えたりして、見られるようになりたい。

昔々、あるところに読書ばかりしている若者がおりました。彼は自分の居場所の無さを嘆き、毎日のように家を出ては図書館に向かいます。そうして1日1日をやり過ごしているのです。 ある日、彼が座って読書している向かいに、一人の老人がやってきました。老人は彼の手にした本をチラッと見て、そのま