私は彼女の名前のただ一文字すら知らない。当然、彼女の名前を呼んだこともなければ、回想のなかですら“彼女”と呼ぶほかにない。
そう思うと自分が憐れなのか滑稽なのか、どちらとも決めがたい気がするのだ。
高校一年の夏、学校も通学路も真新しさを失い日常と化した頃だった。
だらりと垂れる汗の不快に目を細め、なんの気なく道路の対岸を見やった。丁度向かいの店から背広姿の男が出てくるところだった。真上に太陽が座り、眩むような熱が満ちていた。あんな格好でよく蒸されないものだ。感心して男を見送っていると再び店の扉が開いた。
その瞬間、私は暑さの一切を忘れた。視覚以外の五感すべてが無能になったようだった。

扉から現れた人物こそが彼女だった。
背広の男に、忘れ物らしき茶封筒を渡してすぐ内へ入ってしまった。ほんの数秒のことなのに、彼女の小さな顔についた目の位置や鼻の形や僅かな唇の動きの一部始終に私はすっかり捕らわれてしまった。その晩は目を瞑ると瞼の裏に彼女の半袖の真っ白なブラウスが眩しくちらついて、なかなか寝むれなかった。
彼女は喫茶店のウエイトレスだった。高校の三〇〇m程手前に彼女の店があり、店の脇から急な坂に入ってひたすら登ると正門に着く。店の正面はバスが通る広い道路で扉へ迎い入れるように横断歩道が渡っていた。扉の横は大きな看板窓になっていた。おかげで私は毎朝信号を待つフリをしながら、トーストとコーヒーを運ぶ彼女の姿を大きな窓枠の内に眺めることができた。
とは言え眺めるのも容易ではない。店内が暗いのと、窓硝子に白で抜かれたcoffeeの文字が邪魔なせいで目を凝らさねばならなかった。くねった書体が忌々しいと何度も思った。雨の日は更に忌々しかった。霧がかって視界が不明瞭なうえに硝子に滴る雨粒が彼女を歪ませる。私は雨が嫌いになった。
月曜が終われば火曜が来て、火曜が終われば水曜が来る。毎日彼女は同じ格好で、白いブラウスに緑色のリボンタイを結び長い髪をポニーテールに結っていた。
水曜が終われば木曜が来て、木曜が終われば金曜が来る。毎日私はただ横断歩道の前に立っていた。ただそれだけの日々なのに、彼女のブラウスが長袖に変わっても見飽きる兆しはなかった。

男子校に通う私にとって女性というものがどこか希薄で現実味のないものだったことは否めない。それは級友の誰もが同じだった。薄い布のスカートをひらめかせ綺麗な膝頭を見せて歌うアイドルの名前くらいしか私たちの会話には出てこない。昨夜のテレビドラマの誰それが可愛かったとか、演技は上手いが歌が下手だとか。
私は級友を俯瞰しながら、ほとんど口を挟まず相槌を打って聞いていた。そうすることで彼らの幼さと一線を画しているつもりでいた。遠く離れたどこかのアイドルよりも僅か三〇〇mの距離にいる女性を想う私の感性のほうが秀でているような気がしていたのだ。硝子を隔てた思慕という点ではまったく同類だったのに。むしろ、その気になれば触れられる距離にいながら眺めることしかできない私のほうが拙かったかもしれない。
そうだ。私が勇気を振り絞り、分厚い扉を押し、臙脂のソファに座り、何食わぬ顔で手を挙げてみたなら…… そんな空想は私を魅了して止まなかった。
彼女の声はどんなだろう。退屈な授業の傍らに考える。呪文に似た化学式を唱える教師の声は雲と散ってコーヒーの匂いに変わる。チョークの打つ音は、そう、彼女の足音だ。
コッコッコッ 近づく足音が聞こえても、その声はどうしても想像つかない。百聞は一見にしかず。いや、百見は一聞にだろうか。あの扉を開けさえすれば分かるのに。そんな勇気はついぞ興ることがなかった。眺めているだけで満足で、そのくせ私はほかの誰かが、級友のあいつやそいつやあるいは全員が抜け駆けのように彼女の店を訪ねることを恐れていた。

ある朝、いつものように信号を待っていると横から声をかけられた。
「よお」
声も顔もよく知った、級友の佐々木だった。
私は鳩が豆鉄砲を喰らったように目を丸くして飛び退いた。これまで彼女との逢瀬を邪魔されたことなどなかったのだ。
私は「おい、お前チャリ通じゃなかった」と問うた。佐々木は毎朝自転車でバス通り(こちらの方が勾配が緩かった)を走っていたはずだった。ほかの生徒も多くはそうしていたし、もしくはバスで登っていた。私のように歩いているものはごく稀だったのだ。
佐々木は自転車がパンクしてしまったと教えてくれたが、私は答えなどどうでもよくなっていて、ただ彼の目が正面の喫茶店に向かないことだけを祈っていた。大いに焦りながら、それと気づかれぬようこちらへ注意を向け続けるべく会話を取り繕うのはなかなか骨が折れた。信号がいつもの何倍も長く、宇宙船が地球を一周したんじゃないかと思ったとき漸く青が点いた。

彼女を硝子の外に見たことが実は二度だけあった。一度目は初めて彼女を見た夏の朝で、二度目は雪が降りそうな凍えた冬の夕方だった。
 どの部にも所属していない私は明るい時分にしか坂を下りることがなかったが、その日は補講を受けていたがために街灯が点きはじめていた。運悪く宿題を忘れたためだった。それも五月蠅い化学教師のもので、彼は日頃の私の授業態度が散漫なのを気にしていたらしい。彼の不興はもっともだが、誤解しないでもらいたい。化学や教師を馬鹿にしていたわけじゃない。私はたいていの授業で上の空だった。化学も数学も古典も彼女を夢想する時間だったのだ。
 風が坂下から吹きあがってくるたびにポケットにつっこんだ手をぎゅっと握りしめた。年の暮れまではまだ日があろうにと思いながら坂下から吹き上げる風に目を細めたときだった。二軒先の勝手口が開いた。ガサガサと音を立てながら肥えたゴミ袋が出てきて、次いで白いブラウスの彼女が出てきた。重そうに袋を持ち上げる彼女の吐く息が白くくゆる。私は居ても立っても居られない気持ちで駆け出した。一瞬たりとも彼女の目に映るものかと、一瞥もくれずに走りすぎ、点滅している横断歩道を全速力で渡った。バクバク鳴る心臓、吸う空気の冷たさ、目がチカチカした。ポケットに手をつっこんだままでよく転ばなかったものだ。
 一息ついてみると何故あんな盗っ人のように駆け出したのか自分でも分からなかった。

 トン トン トン
カウンターを指先で三回ノックされて起こされた。顔を上げると、臙脂の蝶ネクタイをつけた青年が心持ち眉を下げて見下ろしていた。私にしか届かない声で「ブレンドお願いします」と言う。
ああ、そうだ。ひと月前にアルバイトを雇ったのだった。  
アルバイトの菅原君はカフェオレ色の髪をした、どこにでもいそうな風貌の大学生だった。私の学生時代とは異なるけれど、彼のどこか遠くを見ているような掴みどころのない目は自分と重なる。

進学とともに上京した私は叔父の家に厄介になった。叔父は喫茶店を経営していて、私に店の二階をあてがってくれた。毎日外から眺めていた喫茶店が自分の家になった。私が運命を感じたのも無理はない。
生憎、叔父の店は叔父夫婦だけで十二分に回っていたから彼女のようなウエイトレスはいなかったのだけれど。
そして私の生活はすっかり規則正しくなった。朝は早く起きて店の支度を手伝う。トーストに添える卵を茹でて、人参とレタスを刻んだ。叔父は寝ていて構わないと言ってくれたが階下の物音で目は覚めるし居候の身ではうとうとしようがなかった。それにコーヒーの匂いがのぼってくるとそわそわしてしかたがなかった。 
夕方もたいてい店にいた。
叔父は「まっすぐ帰ってこなくていいのに」と苦笑したが、私にはどんな娯楽より講義よりこの店が面白かったのだ。
毎日顔なじみの客が来ては同じものを頼む。止まっているような時間がゆるく流れる空間をいたく気に入っていた。
はじめのうち叔父はそれが居候としての私の礼儀なのだと捉えていた。口下手の私は弁解の仕方を知らず、学生らしく遊んで来いという叔父と不毛な気を遣い合っていた。
「そんなにこの店が好きか?」
前触れは忘れてしまったが、ある日叔父が私に問うた。私は無言で頷いた。それで漸く合点がいったらしかった。
翌日私はタマゴサンドのレシピを教わった。叔父のタマゴサンドは食パンに厚焼き玉子を挟んだもので、ゆで卵をつぶしたものしか知らなかった私には奇妙に見えた。しっとりした食パンの片面にマスタードを塗り込み、もう片面にはごく薄くマヨネーズ。ふんわり焼き上げる厚焼き玉子には塩しか入れない。パンと玉子のやさしい甘さに心がほぐれて、マスタードが引き締める。叔父のタマゴサンドは逸品だった。
そしてシンプルなだけに難しかった。叔父は私を試しているに違いなかった。私としては早くタマゴサンドを覚えてコーヒーの淹れ方を教わりたかったのだが、焦っても玉子はなかなか上手く焼けない。
そんな私を見て叔父は「溶き方がわるいなぁ」と呟いたり、「温度が弱すぎる」と言ったりした。私は思わずムッとして叔母はホールから笑って眺めていた。客はみな私たちのやりとりをラジオのように聞き流しながらコーヒーを啜っていた。
叔父が淹れるコーヒーは滑らかで甘い。どんな客も一口含んだ瞬間に眉を弛める。そしてまた難しそうな顔で新聞を読んだり腕を組みなおしたりするのだ。そんな一瞬を盗み見るのが好きだった。カウンターの内に目を向ければ、叔父のネルをかける手つきやポットを傾ける姿がかっこよく見えた。
ときおりミルが唸るような音を立てた。私は聞くたびに、星が生まれるときにはこんな音がするんじゃないかと思った。窓越しに眺めているときには聞きようのなかった音だ。

自分の店をもったとき、私はきっといつか彼女のようなウエイトレスを雇うだろうと思っていた。だがどんな子がやってきても、まるで精巧なカメラのように私の目が彼女との違いを見つけだしてエラー音を発する。

ちがう ちがう 彼女じゃない

私を騙せない私はウエイトレスを雇うことを諦めざるを得なかった。そのために私の店には、黒くて長い髪も円い目も細い首ももたない青年が雇われている。イマドキの、と一括りにできそうな風貌の菅原君は無口だが、彼の胸中にも秘めた思いがある気がする。あの頃の私と同じように。
菅原君の肩越しにまるく肥えた中年の男の虚像が見える。いつの間にかたるんだ皮膚が目尻に影をつくり、顎の下にだぶついている。黒く塗りつぶされた窓硝子に映る自分の姿はまるで亡霊のようだ。
ふいに私の亡霊をポニーテールの彼女が横切った。しかし、ハッとする間にもう窓枠の外へ消えてしまう。……店の前を知らぬ誰かが通り過ぎただけのことだ。こんな錯覚を今まで何度も見てきた。そしてこれからも度々起こすのだろう。私の亡霊はだんだん変わるのに横切る彼女の面影は変わることがない。
「マスター?」
ぼんやり立ち尽くす私に、菅原君が怪訝そうに声をかける。
「ああ、なんでもないよ。これでも昔は菅原君くらい痩せてたんだけどねぇ」
「はぁ……」
言葉とも息ともとれる返事をよこす彼の無関心が好ましかった。
カップにコーヒーを注ぐ。立ち昇る湯気が、まるで寒い日の吐息のように白く宙を漂った。思わずため息をついた。
たまにコーヒーを運びながらミニシアターに座っているような気持ちで往来を眺めていることがある。狭い商店街のなかの店だ。行き交う人の顔は見覚えてしまう。無論、顔しか知らない。
私には誰もがスクリーンを滑る紙人形のように見えた。もしも彼女が交差点の向こうの私を見やることがあったとしても、同じように一枚の紙人形に見えたことだろう。憐れで滑稽な私はその予想に安堵する。

私は彼女の名前のただ一文字すら知らない。だから回想のなかですら“彼女”と呼ぶほかにない。
私は彼女の声を知らない。だからただ、白い吐息だけが私に話しかけるように揺れる。空想のなかですら聞こえないその声に、それでも耳を澄まさずにはいられない。恋せずにはいられない。
恋と呼ぶにはあまりに淡い彼女のことを。

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