雨と街灯

しとしと雨の降る夜でした。
初夏の兆しを感じさせる晴れ間に浮かれて選んだ白いシャツワンピースは薄く、微かに雫を被った肩が震えます。両手で肩を抱きながら、私は閉まった駄菓子屋の軒下に立っていました。
いつ止むとも知れぬ雨をこうして凌いでいても意味がないことくらいは分かっていました。しかも、私の家までは速足で5分とかからないところにあったのです。それでも、どうにも帰る気にはなれませんでした。
ここは確かに寒くて暗いのですが、帰ったところで凍えた窓と凍えた床があるばかり。そんな部屋を思うと帰る気にはなれず、駄菓子屋の軒下のほうがいくらかマシに思えたのです。
どうして一人の部屋で聞く雨音はあんなにも悲しいのでしょう。まるで無視することも声をかけることもできない誰かの泣き声のようです。私はただ気づかないフリをしてやり過ごすしかありません。外の雨は違います。木の葉にあたり、アスファルトにあたり、屋根にあたり、雑多な音を奏でます。それは会話のような音でした。

「お嬢さん、こんな遅くにどうしたのですか?」
そんなことを考えていたせいでしょうか、声が聞こえた気がしました。いえいえ、気のせいでしょう。だって、私の周りには誰もいないのです。先刻からずっと、私と並んでいるものはアイスクリームのショーケースくらいで、誰かが近づく気配もありませんでした。
「お嬢さん、寒くはありませんか?お家へ帰らないのですか?」
今度はよりハッキリ近くで声が聞こえました。目を瞬かせると、俄かに視界の端が明るくなりました。右手を向けば、それは街灯の橙色をした電球でした。
真っ暗なかで黒い柱の街灯が高い背を曲げて、電球の付いた腕を此方へ伸ばしていたのです。
「其処はうんと寒いでしょう。さ、こちらへお寄りなさい。電球の傍はいくらか温いはずです。私はこれ以上は寄れませんから、さ、此方へ」
恐る恐る近づけば、街灯の言う通り電球の放つ熱が感じられました。まるで月が落ちてきたようだと思いました。
「けして触れてはいけませんよ。旧式の電球ですから」
街灯が反対の手で頭を掻くのが見えました。
「ありがとう。月が落ちてきたみたい」
街灯は恥ずかしそうに頭を掻きました。

「突然話しかけてしまって、さぞ驚かれたでしょう。此処へ長く立っている人が珍しかったものですから、つい」
「そうね、私もはじめて立っているわ」
「そうでしょう。人間には足があります。私どもとは違います」
「貴方はずっと此処に立っているの?寂しくはない?」
「ずっと立っていますが寂しくはありませんね。毎朝カラスが停まりますし夜には蛾や羽虫がやってきます。それに、私は兄弟と地下で繋がっていますから終始ひとりではないのです」
街灯は本当に流暢に喋ります。曲げたままの背が痛くならないか少しだけ心配になりました。
「右に煉瓦の家がありますね。その前の街灯は一番近い兄です。兄といってものたった3時間前に立っただけですが……。それでも兄貴面をするのです。まったく嫌になります。その次の兄はとても穏やかです。毎年春になると足元にタンポポが咲くそうです。角を曲がった先なので見たことはありませんが、電線を通じてチチチ テチと話してくれるのです。ですから、私はいつでも寂しくないのです」
それから街灯は順繰りに兄弟の話をしてくれました。そして隣のアイスクリームのショーケースとは起きている時間が合わないので、夕暮れの数分しか話せないことも教えてくれました。
「遠くの兄弟とはうんと話せるのに、すぐ隣の彼とは話せないなんて不思議ですね」
はじめて街灯の見えない顔が寂しそうに見えました。

「おやおや、すっかり付き合わせてしまいましたね」
沈んだ声を取り繕うように街灯が言いました。
「本当に冷えてきました。お嬢さんのお家は遠いのですか?」
私は坂を登った小学校のすぐ先だと答えました。
「それなら道なりに兄弟がずっと立っていますから、貴女を送らせていただけます。生憎雨は退けられませんが灯りだけは点しましょう。しばしお待ちを」
そう言うと街灯は二度、三度身震いしました。
テチチ テチチ チチチ
きっと兄弟へ話しかけているのでしょう。
「さ、皆へ伝えましたからどうぞ安心してお帰りなさい。タバコ屋の前の兄だけは臍曲がりでして、根は良い奴なのですが言葉が荒くて意地悪を言うかもしれません。どうかお気を悪くしないでくださいね」
私は頷きました。
街灯が真っ暗な中へうんと腕を伸ばします。雨粒が白くきらめいて降っていました。
「ありがとう、さようなら、……さようなら」
街灯の灯りが届かなくなるころ、一番近いという彼の兄がうんと腕を伸ばして迎えてくれました。
「やあ、お嬢さん。こんばんは。弟が失礼したね」
そうして次々に街灯に手を引かれるように私は坂の梺まで歩きました。次の兄は臍曲がりだというタバコ屋の前の街灯です。
彼は私を見ると「ふん、六男が言っていたのはお前か。余計な仕事をさせおって」と吐き捨てました。それでも、誰よりも低く腰を曲げて、うんと腕を伸ばして、誰よりも長く道を照らしてくれました。
私の影が細く前に伸びて、私たちは二人でしばらく歩きました。

気づけばもう家の前でした。
チチ テ
玄関の灯りがパッと点きました。
「ありがとう、ただいま」

雨はもう、止んでいました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?