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『学生たちに捧げるレクイエム』      イタリア発。日本にも響いているのか。

ジョルジョ・アガンベン 大勢に抗する哲学者

ジョルジョ・アガンベンというイタリアの哲学者の『私たちはどこにいるのか 政治としてのエピデミック』という本を読んだ。
世界的に著名な学者というが、僕は知らなかった。
この本はコロナウイルス感染拡大、エピデミック下におけるイタリアから、大勢に抗して、言説を発信し続けた、彼の論稿やインタビューをまとめたものである。
表題の『学生たちに捧げるレクイエム』は、その中のひとつである。

パンデミック

「例外状態」の中で、宙吊りにされた自由

アガンベンの考えはこうだと勝手にまとめてみる。
コロナ禍の世界は今やバイオセキュリティ体制である。
健康への不安を煽ることで市民に自由への制限を受け容れさせている。
これは両世界大戦期にも全体主義的独裁下でも一度としてなかったこと。
リスクなるものの名において、精神的文化的な生ではなく「剥き出しの生」を護るためにつくられた例外状態の中で、法や移動の自由が「宙吊り」にされる。
死の尊厳が棄損され、人はソーシャルディスタンスにより引き離され、デジタル装置による「接続」が新たな人間関係になる。交友や愛すら「宙吊り」にされた。
権利拡大を求めて闘争してきた左派組織までもが自由の制限を徹底的に受け容れている。
この例外状態は、すでに行き詰まっている資本主義、民主主義が彷徨いながら手をかけてしまうとも限らない体制像につながる可能性がある。

このことは日本でも長く続いている緊急事態宣言、現在のロックダウン論争の状況の中で、僕が感じてきた強い違和感につながるものがある。
人々は、どうして簡単に自由を差し出すのか、縛ってもらいたがるのか・・・・。
非合理で不公平な自粛強制に沈黙するのか・・・・。
左派リベラルまでもがなぜより強い自粛政策を望むのか・・・・。

そしてアガンベンが学生に言いたいこと 鎮魂歌の意味

『学生たちに捧げるレクイエム』で、アガンベンは、オンライン化という授業の変容ではなく、それよりはるかに決定的で意味深いこととして、「生活形式としての学生団体が終わりを迎える」ということを指摘している。

学生組合・ウニウェルシタスは、大学・ウニヴェルシタス=ユニバーシティの原点なのだ。

それは大学が教育と研究の場であるとともに、出身地、階層、国籍を超えて、友人と出会い、学び、議論し、体験し行動する場であり続けたということなのだ。この10世紀にわたって続いたことが、遂に終わろうとしていると。

では、日本の大学はどうだろう

今年2回生になる学生と話した。

キャンパスに登校したのはテキストを買いに行った一度だけだと。なんのために親は学費を払い続けているのかわからないと。鬱になる友人も増えていると聞く。

それでもオンライン授業、反転授業でも講義は進行しており、入学式も卒業式も学園祭もリアルで開催しないでも大学生活は成り立っているというのなら、ウニヴェルシタスの本質とはいったいなんなのか。

場所、地域、規模、キャンパスの形状、感染状況の違いがあるにもかかわらず、社会の圧力に抗しきれなかったのか、すぐに門を閉ざしてしまう大学も多い。
学生は明らかに大学の保身を感じている。
大学がどこでギリギリの葛藤や努力をしているのか、学生に対してどんな本気のメッセージを伝えようとしているのか。

学生は見ている。

学生のことだけでない。日本にはアガンベンのような世論の大勢や権威に物言う面倒臭い大学人はいないのか。
これからの社会のあり方について、多様な選択肢や対案を提起している大学人はいるのだろうか。
それは医療分野だけではなく、社会科学、人文科学ほとんどすべての研究者にとって、本来課題になりうるのではないか。大震災の時にたくさんの大学の知識と行動が発揮されたように。
残念ながら、僕にはあまり見えない。元気を失って疲れ果てているのか。言うに言えない空気が内部にもあるのか。

もともと大学にいた人間だし、今も大学に関わりを持っているので、大学は何をやってるんだと単純にいうつもりはもちろん、ない。たくさんの困難な課題に取り組んでいる関係者をたくさん知っている。最近だと、ワクチンの集団接種とか。

大学も、いろいろ大変だな〜と思う。

でも、何人かの学生と話をしていると、やっぱり気持ちがつながってないな、通い合ってないなと思うこともあるのだ。大学が知の共同体の構成メンバーとして、学生をどう位置づけているのか、ということかな。

感染者が減少して、秋には学生がキャンパスに戻ってくるだろうけど、そのあとかなりの可能性で次の波が来る。その時に大学はどうするのか。また、感染者を大学から出したくない、クラスターをうみたくないと、閉めるのか。

だから大学も政府や自治体の政策にたいして主体的な反応をしなければいけない。地域ともコミュニケーションを取らなければならなう。そういう時期なのだ。

そのことが問われている。

アガンベンは、「新たな情報通信的独裁=全講義のオンライン化」に従う教員は、「1931年に(イタリア)ファシズム体制への忠誠を誓った大学教員と完璧に等価であると」警告している。激しいですね。

そして、学生たちには、もはや変容した大学への入学を拒否し、新たなウニヴェルシタスの創造に立ち上がること期待をしている。

今、パンデミックとかエピデミックとかの状況に、世界や日本で起こっていること、ゼロコロナかウイズコロナかとか、ロックダウンは是か非かという議論はあって、そういう医療のあり方や大きな社会政策について論じる能力はない。

けれどだからと言って沈黙していてはつまらない。

天上に「宙吊り」にされているものについて深く思いをいたすこと、専門家でなくてもできるし、大切なことにように思うのだ。

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ジョルジュ・アガンベン著
高桑和巳 訳
『私たちは どこにいるのか? 政治としてのエピデミック』青土社

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