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黒百合ヒュッテと米川正利さん#002

「米川さんの絵本」を制作するのに、まず黒百合ヒュッテについてご紹介をしなければ意味がわからないとも思いますので、絵本はじまる前に少しだけ補足説明をこちらに書いておきます。ご参考にしてください。なお今回は、昔から現在までの時の流れを理解しやすいよう和暦と西暦で表記しました。

黒百合ヒュッテは北八ヶ岳にある山小屋です。

八ヶ岳は長野県の諏訪地方から山梨県まで南北約30キロメートルの火山列で、本州の中央を走っているフォッサマグナの中央にあります。
八ヶ岳は山の特徴から北八ヶ岳南八ヶ岳と分けられて、標高は約2400m~2900mの山々から成り立ちます。

(注釈)
火山列とは「1列に並ぶ火山群。火山帯より規模が小さく、その中の小単位としていう場合が多い」website goo辞書より
フォッサマグナとは「《大きな割れ目の意》本州中央部を南北に横断する断裂帯。西縁は糸魚川 (いといがわ) 静岡構造線であるが、東縁は不明。内部はグリーンタフを含む厚い新第三系が褶曲 (しゅうきょく) し、その上に第四紀の火山が分布している。E=ナウマンの命名。website goo辞書より

北八ヶ岳のひとつ天狗岳の麓で湖があり黒百合の花の群生地、黒百合平と呼ばれる場所に米川正利さんのお母様が昭和31年(1956年)に開業しました。
標高2400mの黒百合平に、日本では女性ではじめて山小屋を開業したのではないだろうか、と米川さんからお聞きしています。

「なぜおかあさまが山小屋を?」

米川正利さんは昭和17年(1942年)生まれ。お父様は山林の関係のお仕事をされ、いつか山小屋を造ることが夢であったと後にお父様を知る方々が米川に話してくれたそうです。
ところが正利さんが小学校6年の時、お父様が脳溢血で急逝。一家の大黒柱を亡くしたお母様は借金を抱え、大変なご苦労をして女手ひとつで子供たちを育てる事となりました。
そんななか、お父様が亡くなられた翌年に突然、北八ヶ岳にお母様がひとりで登ると言われ、黒百合平に山小屋を造ると言われ、お金の借り入れをして山小屋の建設をはじめ、そして昭和31年(1956年)、黒百合ヒュッテが開業。
開業当時は、お母様と正利さんのお姉さまが小屋番として山小屋で仕事をし、正利さんは昭和36年(1961年)20歳の時に山小屋の仕事をする決心をして山小屋主人となったそうです。
詳しいことは正利さん著書「山小屋物語 北八ヶ岳黒百合ヒュッテ」をお読みいただければと思います。

米川さんが著書にも書かれていますが、「なぜお母様が突然山小屋を造ると言い出したのか、理由を聞きたかった」とよく言われます。
お父様を小学生で亡くされ、お母様も体調が悪いなか山小屋で仕事を続け、昭和41年(1966年)57歳で亡くなられました。
山小屋のお話等を私が米川さんからお聞きしたり著書を拝読するたびに、米川さんはもっと多くの事をご両親からお聞きしたかったのだろうという想いを強く感じます。
また、米川さんご自身どんな想いで山小屋で過ごしたのだろう、100キロにもなる荷物を背負い何を考えて春夏秋冬八ヶ岳を登り下りしたのだろうと思うのです。

また米川さんは若い頃から、筆や鉛筆で山小屋や登山道、森などで、ふと目に留まるものや思い出などをスケッチすることが好きだったとのこ。
「実は20代に絵本を描いてみたいなと思ったことがあるのですよ」と、今回イラストに添える文章を書いてくださる事になった時にお話してくださりました。

黒百合ヒュッテは、通年営業し多くの登山客で賑わいます。八ヶ岳も本格的な登山からこれから登山をする方々まで人気の高い山です。
山、動植物、空や四季折々の様子など、米川さんが実際に経験した事を何か残していくことは、誰かの思い出を紐解くきっかけとなったり、登山の参考となったり等、きっと何か得るものがあると思います。
たまたまイラストを描いていただきお話をお聞きしているなかで、この貴重な情報をどうしても未来に残したいなあと、そんな想いもあり絵本制作となりました。
専門書や専門的な内容のWEB等はたくさん入手できますし、山に登っていない私が(山のなかに暮らしてはおりますが)知ったふりして書く事など到底できません。
未来につなげる山のお話のひとつとして制作していけたらと思っています。

写真は平成28年4月29日(2016年)、米川さんの長男岳樹さんが今は小屋番となっている黒百合ヒュッテ北八ヶ岳の情報ブログの写真です。60周年の年の岳樹さんの投稿です。(黒百合ヒュッテブログはこちら

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