ヨガは生きもの的

ヨガを始めて半年ほどの生徒さんが、
知り合いにヨガをしていると言ったところ、
「身体柔らかいんですね!すごーい!」
みたいなことを言われて、
「えっ全然柔らかくないです!違うんです!」っていう感じで困ったというような話を教えてくれました。

確かに〝身体がもう少し柔らかくなったらヨガ始めます〟とか〝もう少し痩せてからいきます〟とか、私もたまに言われたりします。

少しずつヨガのイメージも変わってきていると感じるものの、〝柔軟性を要する運動〟〝健康体操〟あるいは〝意識高い系女子の習い事〟ビューティーなイメージは根強いなと感じる、今日この頃。


(話がズレますが、巷では〝意識高い系〟って聞くとツンとした感じありますけど、本当の意識高い系はツンとしていないと私は感じます。そして、ヨガを続けている生徒さんを見ていると意識高いと感じます。私も自分で意識高い系だと思っています。笑)


私の話をします。
自分自身のアーサナ練習で言えば、今はできるだけシンプルにしたいタイプです。中国雑技団のようなポーズが多くできるようになりたいとも思っていないし、必要以上の柔軟性がほしいとも思わないようになりました。(もともとあまり思っていませんが。)ただ淡々と身体に意識を向けて、集中したアーサナの練習を通して今にいる心地よさ、静けさがたまらなく私の栄養補給時間になっているのを明らかに実感しているからです。

最後のナマステが唱え終わると、もうそれでいいのです。集中できた日もそうではなかった日も、ポーズの進歩を感じられた日も後退を感じた日も、その日の練習に良いも悪いもないのです。

自分自身で〝今日は集中できなかったな〟と思うことや、〝あの感覚はひとつ壁を越えたかも〟とか思うことはあっても、身体のドコがまだまだ硬いな、とか、あのポーズが苦手な原因とその答えをクラス後に追求することなどまずしないタイプです。

もし日々のアーサナの練習にそれを求められて、もっと高みを目指してストイックにする必要があるとすれば、おそらくヨガをここまで続けることはできなかったでしょう。いやっ確実に。

そうそう。
そもそもストイックじゃないんです、私。
できるだけラクしたい。今でもそう思っちゃいます。ヨガしている人はちゃんと自分を律して規則正しいヘルシーな生活をしてそうっていうイメージがあるかもしれませんが、案外そうでもありません。

そもそも、私は昔から運動が好きではありません。中学の頃入っていたテニス部では、放課後の練習も基本おしゃべりメインだったし、高校の時も帰宅部だったし。小学生の頃は跳び箱も8段飛べた記憶はありません。二重跳びも3回くらいしかできないし。それでも、そんな私でも、それなりにアーサナもできるようになっていく訳ですよ。結果、そんな感じだったからヨガとの相性がよかったのではないか、とすら思います。


そんな私は生徒さんへクラス後に自らアドバイスやフィードバックすることはあまりありません。
聞かれたら答えるし、会話の中の自然の流れで「最近いい感じに深まってきてますね」とか「こうしたら?」みたいなアドバイスはしたりしますが、基本的には率先してアドバイスすることはしないです。(クラス外での話です)

日々気づいて、少しずつ変化していけるならそれがいいと私自身は思うからです。毎回毎回変化しなくてもいい、気づきがない日もあるでしょう。
それでいいでしょ。それでよいとしなければ、ヨガとの関係は長くは続かないと思うからです。ラブラブカップルが月日が経つに連れて刺激がなくなってマンネリ化し別れるみたいな。

少し先を歩いている先生は「あなたはこうしたほうがいいよ」っていう答えを知っていたとしたらアドバイスしたり教えてあげたくなったりするかもしれません。生徒さんはわからないことがあれば理解できる答えをすぐに欲しくなるかもしれません。それをすることが全ての場合に良いとは限らないのです。答えを教えることも、答えを聞くことも簡単なことなのかもしれません。お互いスッキリするかもしれません。
だけど生徒さんの〝自分で探る〟ことや、〝選ぶ〟ということを奪ってしまっているということもあります。

そして、先生が身体のことばかり言っていると、生徒さんは身体にこだわるのは自然な流れだろうとも思います。それと同じように、柔軟性を気にしたり、スマートな人がヨガをするものっていうイメージもメディアやSNSの影響は大きいので自然なことだと思います。私も最初はそう思っていましたし。

この塩梅、とても難しいところですが、ヨガというカタチのないものを実践していくこと、伝えていくことのとても面白いところでもあると思います。そういう生きもの的なところが私をトリコにさせます。


Ogi



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