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シン・エヴァンゲリオン劇場版 感想

シン・エヴァンゲリオン劇場版を観た。

中学生の頃、TVシリーズをVHSで借りたところからもう20年余。当時のぼくはロボットもの的な認識しかなかったし、レイとかアスカがかわいいなとか、最終話意味が分かんないなとか、なんかよく分からないけどでもやっぱ気になるなって作品だった。

だから漫画も買ってたし、劇場版も観たし、序・破・Qも観た。破で綾波を救いにいくシンジとかすげー熱いなって思ってテンション上がってたら、Qではシンジがやたらと突き上げられてて、誰も何も説明してあげないで冷たいし、幾らニア・サードインパクトを引き起こしたからってそりゃないんじゃないの?って感じで、やっぱりよく分からないなって思ってた。で、遂にシン・エヴァンゲリオンで完結する、と。だから、どんな決着になるのかな〜なんて感じで、さほど期待もせず、でも楽しみにしながらいそいそと観に行った。

結果、すげー良かった。すげー良かったので、ちょっとそれを書いておきたくなった。もし仮にまだ作品を観ていなくて、いずれ観たいなって人がいらっしゃったら、読むのはやめておいた方がいいかもしれない。

良かったところを簡単に言うと、エヴァを「引き」で扱ってるんじゃないかってところだ。

シンジがゲンドウと対峙するところがある。そこでゲンドウに「息子が怖い」ってことを直接語らせちゃったり、人類補完計画とか壮大っぽいこと言ってるけど、結局「ユイ!ユイ!」って言って引きこもりがちでオタクな自分を外に出してくれた奥さんを取り戻したいだけなんじゃんってことを露呈させちゃったりするんだけど、それ出しちゃっていいんだっけ?とか思って、観劇中に笑いが溢れてしまった。

だってあれほどカッコ良くと言うか、エヴァって世界観があって、いろんなエヴァ用語があって、大層な目的の下動いているラスボス的なおじさんが、結局それかい!的なことをマルっと出してしまうのって中々できるもんじゃないと思うんだよね。

じゃあそれをゲンドウダサかったねって思うかって言うとそうではなくて、なんかそう言う人間臭いところ、なんなら面映くなるところを、エヴァっていうレトリックを外すような感じでカッコつけずに出しているのが面白いし、作中で出してるってところで人間のそういったところを認めてあげちゃってるって感じがして、ぼくとしてはとても良かった。

で、このゲンドウって、庵野さん自身な気もするんだよね。

このゲンドウに限らずエヴァって作品は、エヴァって作品であると同時に庵野さんそのものが湧き出ちゃってるもので、だからTVシリーズのエヴァやり切った後に庵野さんは鬱になっちゃったとか(確か奥様の安野モヨコさんの「監督不行届」でそんなことが書いてあったような)あるんだろうけど。それを今まではエヴァ的なレトリックで語っていたんだけど、シン・エヴァは過去のエヴァ(即ち過去の庵野さん自身)とかマルっと引き受けて、受容してあげて、最後は現在とか現実(それこそエヴァの世界ではなく今目の前にあるそれ)を肯定してるって言うか。

これを感じたのが、Qからシン・エヴァのシンジくんの変遷で、Qでは只管シンジくんの一人称で突き上げを食らっているような感じで、唯一自分に親切にしてくれたカヲルくんも眼の前で死んじゃって、もうお先真っ暗って感じでどう回収するのよ?って思っていたんだけど、これがシン・エヴァでは紆余曲折を経て、自分の罪(ニアサー)というか親父のやらかしたことというかそういったことをマルっと引き受けて、ケリをつけようとするわけだ。

意図しない副産物(数多の死と世界の激変)なんて普通到底受け入れられないじゃないかって思うけど、それを引き受けて、親父とケリはつけるし、エヴァの登場人物各位も救っていくんだよね。しかもエヴァのない世界に返してしまう。で、ありがとうエヴァンゲリオン、と。

で、シンジはシンジで最後マリが迎えに来てくれるんだが、それで戻るのがそれこそ「普通」の日常で。シンジは声が大人の男性のそれになってて、マリとのやりとりもそれこそいい大人。彼らは楽しそうに駅のホームの階段を登って改札を出て走って行くんだけど、なんかこのエンディングが最高だった。

エヴァを通じて大人になった庵野さんのアナロジーというか。ゲンドウも殺されつつもなんか最後救われたような感じだったし。明るいシンジとマリという存在が現実世界への肯定的な認識を象徴しているのかな、とか。で、「ありがとう、エヴァンゲリオン」って言葉は、なんならエヴァにハマってきた観客をもエヴァの世界から卒業させちゃって、エヴァなしのこれからの世界、各々の現実に返してあげちゃう呪文みたいなものなんじゃないかって感じてしまったわけだ。

そんなわけで、明るくて前向きで優しい、とても良い作品だなと感じた次第でした。

あとはちょっと別の観点から。

義理の弟が色々とシン・エヴァの解説とかを観ているらしく(彼はもう3回観ている模様)、マリの存在がマグダラのマリアとの符号があるらしいってことを教えてくれたんだけど、とすればシンジはイエス・キリストっていうことになる。

マグダラのマリアってのは十字架に架けられ、埋葬されるイエスを見守り、そしてその復活に最初に立ち会ったとされる女性なんだけど、確かにそれって作中のマリと激しく符号しているんだよね。

でシンジはと言えば、Qで只管罪に問われたところから、シン・エヴァでその罪を背負って、関係各位を救っていく。その後のシンジはどんどんスケッチみたいになって薄くなっていくんだけど、これはある意味「死」なんじゃないかと。で、最後はマリが迎えに来て現実世界にカムバックするわけなんだが、これって自己犠牲の下、全ての人間が生まれながらに持つ罪(原罪)を一人で背負って死ぬことで、全ての人間の赦しを得ることとなり、その後復活するイエスとまるで同じというか。

使徒とかアダムとかの時点で勿論キリスト教的世界観を参照してるんだろうなってはなんとなく思っていたんだけど、ここまでキレイに符号してるの?って思ったら、なんか鳥肌が立って楽しくなっちゃったので、それも含めてまた観ちゃうんだろうな。

ほんと感じたことは色々あるんだけど、伏線の回収の仕方とかすげー優しいと思うし、人の「今」とか「現実」を肯定してくれてる感じがするし、本当に良い作品でした。次いつ観ようかな。

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