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自分の気持ちくらいは

最近、自分の中で衝撃的だったのが、自分の気持ちがわからない、ということだった。日々のふとした瞬間、暮らしのちょっとしたことで、自分が何をやりたいのかわからなくなったりするのだ。

例えば妻が娘を連れて外出するとき。一緒に行くか、家にいるか。STAY HOMEだから、とかいうのではなく。自分としてどうするか、はっきりしない。みんな一緒に行くのも良さそうだけど、家でやりたいこともあるような。みたいな感じではっきりしない。

妻からご飯について聞かれても、結構「何でもいいよ」と答えてしまう。妻や娘、状況に合わせてしまうことが多く、いざ自分が何を食べたいかとなると、答えに窮してしまうのだ。

こと仕事に関しては、こういったことは起きない。日常生活でも、例えば買い物に行く、とか、娘を公園に連れていく、と予め決めていれば問題は無い。ただ、ふと自分のやりたいことを聞かれると、立ち止まってしまう。


確かに、目的を定めたり、それを効率的にこなそうとすることに関しては、結構慣れている。同じ仕事なら早く終えられた方がいいし、目的地には寄り道せず真っ直ぐ向かった方が、移動時間が短く済む。外出の用件があるなら他の用件も併せて予定しよう、みたいな。

そして、そこにはあまり自分の感情を介在させることがない。ちょっと嫌とか、疲れたとか、そういった気持ちは脇に追い遣ってしまう。目的ありきでそれに自分を合わせるような感じだ。これに思い至った時、ぼくがまだ会社勤めをしていた時のことを思い出した。


会社で働き出すと、「仕事」というものが、どうやら自分がやりたいかどうかは畢竟関係ないらしい、ということと直面する。それでもやらなきゃしょうがないから、例え心が赴かなかろうが、その声には蓋をして、やるべきことを、やると決めて、とにかくやっていく。そんなことが結構あった。

いや「仕事」ってそういうもんでしょ。って話なのかもしれない。その仕事を選んだのはぼくだし、それで「お金」をもらってるんだから、やれと言われたことをやらないとしょうがないでしょ、みたいな。

とは言え、ぼくにとって自然じゃないことを「やらなきゃいけない」で押し通してやっていくことは、その時はがむしゃらにやっていただけだけど、思い返せばなかなか苦痛を伴うものだった。自分にとって不自然なことをやろうとすると、それがどんなに些細なことであっても、心拍数が変に上がるというか、心の奥が「うっ」と重苦しくなるのだ。

それでも尚、自分の気持ちを押し殺して外部の物差しを優先し続けると、目的への推進力というか、嫌なことだろうと何であろうと、やると決めてとにかくどうにかやり切るという謎のスペック(?)は、確かに否が応でも強化されていく。


こんなことばかりやっていたら、そりゃあ自分の感情どころじゃない。そんなの見てる暇もない。やることできるだけさっさと片付けて、予定を日々こなしていく。そんな毎日になっちゃうよね。それを夜な夜な飲むことで散らしてたのか。いやそれは大変だったよね。と、自分に言いたい気持ちになった。

幸いぼくには今家族がいて、ぼくのやりたいことをちゃんと聞いてくれる。仕事相手の方も、有難いことに、ちゃんと話し合うことができる人たちだ。謎のスペックを鍛え続ける必要も、もうない。

だから安心して、自分の気持ちに忠実になっていいんだよ、と自分に許容してあげたいと思う。そう思うだけでも、少しずつ自分の気持ちがわかってくるんじゃないかしら。ということで、差し当たりは休日の昼寝辺りから始めてみるつもりだ。

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