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NPOがしている「対話」と「意識化」を知ることで、社会の変え方が少しわかる~書籍「当たり前」をひっくり返す から学ぶ~

様々なNPOが社会問題解決のために活動をしています。困りごとを抱えていひとりひとりに向き合って解決策を考えたり、その人の周りの環境や生い立ちの中での制約などの原因を探り、そこを変えるべくはたらきかけをしていきます。

そして、困りごとを抱える人に向き合うと同時に、困りごとを抱えざるを得なかった環境、制度、偏見や根強く定着している世間の常識とも向き合うことになります。「なぜ人を救うべき制度がこの人には適応できないのか」「どうして本人の努力と関係なく不公平な立場に置かれてしまうのか」「この人を救うために資金や人手が集まらないのはなぜだ?」こうした思いで社会を変えていく一歩がはじまります。

NPOが起こす社会変革は、こうした従来の仕組みや常識を変えていくことであり、それは人と人の関係性や、個々人の意識の変容を伴うため、とても難しく、粘り強く活動しても失敗してしまうこともあります。

今回紹介する書籍『「当たり前」をひっくり返す』では、過去に社会変革を成し遂げた3名を扱うことで、共通する社会変革を成功させたポイントとして「対話」と「意識化」を挙げています。

この本を読む前の私は、「対話」の重要性は認識していたものの、それは個人間のことで、社会を変えることにどれほど有効にはたらくかは全くわかりませんでした。しかし、この本で語られている重要なポイントをおさえることでNPOが社会を変える際のみちしるべになりうるなと、読み終わった今、思います。

困りごとを抱えた人に向き合い、支えることができるようになった段階のNPOが、これから社会を変えるためにどうしたいいかの参考になる書籍ですので、今回noteにまとめていきます。

バザーリア、ニィリエ、フレイレの3人は何をした人か

この本では3人の社会変革を成し遂げた人を紹介しています。

1.フランコ・バザーリア
当時のイタリアの精神病患者を隔離収容構造を問題視し、「自由こそ治療だ」というスローガンの下で、イタリア中の精神病院根絶の法制定の原動力になった。
2.ベンクト・ニィリエ
知的障害者の入所施設における構造的な問題に取り組む中で「ノーマライゼーションの原理」を書き上げ、当時の施設の論理を大きく変えた
3.パウロ・フレイレ
当時のブラジルで大地主に搾取されていた小作人たちに識字教育をするなかで、「被抑圧者の教育学」を書き上げ、抑圧された側の主体性を取り戻す理念を世界中に拡げた
(P9から抜粋)

いずれも1920年代の生まれで、バザーリアやニィリエは1960年代に主流とされていた、精神病患者や知的障害者は施設に収容し、主体性や自由が全く許されない環境で管理して、社会には出すべきではないという考え方を変える活動をしていました。そしてフレイレも、全く主体性ない存在として扱われていた小作人たちの考え方を変えていきます。3人とも当時の政府や機関の体制維持に反する活動として、逮捕されたり組織を追放されることになりますが、粘り強く活動を続けることで社会を変え、現代において彼らの考え方は常識となっています。

抑圧された人が話す機会を持つとどうなるのか?

バザーリアはイタリアの精神病院の院長だったのですが、そのときにアッセンブレアという、患者たちの間で議長が持ち回りになる、患者とスタッフの集まりを開始します。この集まりは看護師や医師、患者を分けるような形式的な区別は何もなく、議題は主に患者のニーズが話題となる自由な話し合いの場です。

当時の精神病院の患者は、長期間、誰にもまともに話を聴いてもらえない、自分の語りが承認されない閉鎖的な病院にいる「長年沈黙を強いられた人々」でした。

こうした抑圧された人たちの表現は衝突の連続になります。アッセンブレアはスタッフによって運営も誘導もされなかったので、まとまりもなく、制御不能で、怒りや情熱、不合理に開かれていた場だったそうです。

この集まりに何の意味があるの?と思われるかもしれませんが、当時の患者は、精神病とラベルが貼られた段階で「異常なもの」「オカシイもの」と査定され、まともに意見を聴いてもらえなかったので、このアッセンブレアは患者が自分自身を表明する安全な場になっていきます。

これまで自分の本心を話さなかった人が、自分の気持ちを初めて口にするとき、それまでの抑圧的環境が強いほど、恨みや苦しみなど、怒りの感情が表面化される。アッセンブレアを始めた当初、それらが噴き出した空間は、確かに混沌としていただろう。(中略)患者の中には、アッセンブレアにおいてはじめて、自分自身の怒りに満ちた不満がそのものとして受け止められた機会となった人もいる。精神病に関する本質的に意味のない徴候と片付けられずに、人間的なニーズが満たされるための正当な要求として受け止められたのだ。(P17より抜粋)

こうした安全の場で自分の気持ちを表現できることの気付きは変化を生み、その変化はグループ内に拡がっていきます。そうすると、いっけん狂った抗議に見えたものであっても、発言者の内側に存在する論理(内在的論理)を皆で共に読み取ろうと考えるようになります。

そうした個々の内在的論理を皆で読み解いていくと、それまで「個人的な問題」とされていたものの背後に、「不条理な施設の論理」があると、認識が転換されます。

アッセンブレアで「電気ショック療法をしてほしい」という自らの望みを伝えた女性患者。(中略)「なぜあなたは罰せられることを望むのですか?」という問いかけを続け、集団で考え合うなかで、(中略)背後に、「不条理な施設の論理」が潜んでいることを明らかにしていく。「閉じ込められていたのだから、法を破ったにちがいなく、おそらく処罰を受けるのも当然である」(当時、精神病院の患者は、部屋に長時間閉じ込められていた)この論理構造は、閉じ込められている場所は実質的に「刑務所」的な場所なのだから、「法を破ったにちがいなく、処罰を受けても当然」という帰結を受け入れていく。だが、この論理前提が、「不条理な施設の論理」であることが白日の下にさらされることで、「自分たちが閉じ込められていたことへの説明」も反転する。(P19から抜粋)

矛盾をさらすことで扱うべき課題がみえてくる

矛盾している!と言われると嫌な感じがしますが、矛盾を表面化させることが、既存の仕組みが現状とあっていない課題であることが見えてきます。

アッセンブレアでは「矛盾」に蓋をしない。むしろ、これまで「排除や周辺化され」でいたその「矛盾」そのものの蓋を開けて、参加者たちで眺める営みを行っていた。「なぜ治療が終わっても、精神病院から出ることができないのか?」という問いには、社会的入院という一見分かったような理由がラベルとして貼られる。でも、社会的入院とは何か、を深堀りして考えると、社会に受け皿がない、というより、地域に帰ることを拒否されている状態、とも見えてくる。それは、精神障害者への差別や偏見に基づいて、何をするかわからない人は閉じ込めておこう、という「社会統制」の機能が働いている、ということを意味する。すると、そのような「社会統制の装置」がなぜ必要なのか、本当に必要なのか、という(中略)社会の矛盾を明確にする。(P25から抜粋)

世の中の矛盾を、当事者の口から白日のもとにさらすことで、扱うべき課題は何なのかが見えてくる第一歩であることがわかります。

宿命論的な認識こそが問題

1960年代にどこの国でも、精神病患者は治療が終わっても、帰る場所がないために社会的入院として精神病院に長期間閉じ込められていました。「精神病なのだからしかたない」という宿命論的な認識がはたらいていて、それが人権を無視した抑圧的な患者の扱いを許してきたと言えます。アッセンブレアによって、「なぜ、精神病だから、しかたないのか?」「社会的入院をすることで誰のニーズを満たしているのか?」問い直すことで、どうせ・しかたないといった宿命的な認識こそが、制約条件であり、解決すべき問題であることが見えてきます。

もし患者が自らの排除に気付き、そのことに対する社会の責任に気付き始めたならば、患者が長年にわたって閉じ込められてきた感情の真空地帯は、その時になってやっと徐々に、自分本位の怒りの感情の高まりに置き換えられる。この転換から、彼の直面する現実に対する開かれた反抗が生じるだろう。というのも、今やその現実を彼が否定するのは、彼が病気だからではなく、その現実はまさにいかなる人間によっても耐えられないものだからである。(P47から抜粋)

トライアローグで問題を共通のものにする

トライアローグ(trialogue)は三者の話合いという意味で、1990年代からドイツやオーストリアで始まった試みだそうです。精神病者とケアする家族、医療者や支援者の三者が対等な立ち位置で話し合うミーティングのことです。

このミーティングの目的は、違った経験をもつ三者が互いの経験を理解し、お互いの違いを理解することを通じて、共通の言語を獲得することです。(中略)話される内容は「精神病とは何か?」「何が助けになるか?」「良い支援と悪い支援の経験について」「病名を脇に置く」などのテーマの他に、スティグマや偏見、薬や早期診断、リカバリーや社会的排除など、様々な話題が議論される。議論によっては衝突が生まれる内容もあるが、それを避けることなく、話し合いを続けていく。ユーザーや家族は「独自の体験による専門家」として認識され、支援者は「訓練による専門家」であると見なされる。よって、お互いの経験を対等に学び合うことが求められる。(P59-60から抜粋)

トライアローグで大切なのは、三者がヨコの関係であることです。困りごとを抱えた当事者は、「正常に判断できる力がないのではないか」「この人は正しく認知する力がまだない」といった考えを持たれがちで、保護者や支援者と対等の立場で話せることは難しいです。しかし、当事者を「独自の体験による専門家」と捉えることで対等な立場になりえるなと思います。

問題は自分だけの責任ではないことを知る

この本では、精神病や知的の発達の遅れがある人に関することが扱われていますが、一般的なこととして共通して考えることができる部分が多いです。その一つが三つの障害観として著者が説明しているところです。

知的な発達の遅れの問題は、一つのハンディキャップの結果ではなく三つの要素があります。

1.個人の知的な発達の遅れ
2.押しつけられた、あるいは後天的な発達の遅れ
3.自分がハンディをもっているという認識

この1と3は本人の状態に依存することですが、2は、本人の周りの環境や社会によってつくられた生活状況の中での欠陥の可能性や、両親や職員、一般人の不満足な態度が原因となります。施設環境の貧弱さや、教育や職業訓練が存在していないか不十分であること、経験や社会的な接触の不足、等々が元々のハンディキャップの上に付け加えられます。

言い換えると、1の個人の知的な発達の遅れを、2の周りの人が「あの人は何もできなくて、何をしでかすか予測できない人」という思いで扱うことで、3の自己認識で「自分は何もできなくて、誰からも愛されていない人」という認識になり、さらに状態が悪くなるといえます。

この考え方は、ホームレスや引きこもりなど、人に関わる社会問題に対して同じように適応できるのではないでしょうか。1の当事者の困りごとに対応しつつ、2の当事者の環境を改善することで、3の当事者の自己認識を前向きなものに変えていくことで、問題の根本解決につながります。

逸脱者側に立つことで「価値の裂け目」が見えてくる

今の社会で困りごとを抱えている人たちは、通常の価値観や既存の制度や仕組みでは捉えらない場所にいることで「逸脱者」としてとらえられ、制限されたり、排除されてしまいますが、こうした逸脱者側に立つことによって社会の「価値の裂け目」を見ることができ、その価値自体を問い直すことができます。

進歩的な教育者は、すべからく民衆に語りかけねばならぬときも、それを、民衆に、ではなく、民衆との、語りあいに変えていかねばならぬのだと。(中略)自分の提起する考えがどんなに確かで疑いをいれぬものに思えるとしても、まず第一に、それが、話し相手である人びとの世界の読み方と噛み合うものであるかを察知すること、第二に、かれらの世界の見方に多少なりとも馴染み、それに寄り添うこと。(P137から抜粋)

社会を変えてきたNPOの活動では、困りごとを抱えた当事者に寄り添い、当事者目線で社会の何がおかしいのかを捉えています。活動を通じて「価値の裂け目」に立っているのです。

視点を変えることによって問題の全体像を解釈する

困りごとを抱えている人との対話によって価値の裂け目に立つと、変えるべき「社会の当たり前」がぼんやりと見えてきます。その解像度をどう上げていくのかについて、本書ではドイツの哲学者ヘーゲルが提唱した方法を挙げ、正ー反ー合の弁証法的プロセスを実践することで視座を往復させるのががよいと言っています。

1.当事者にとっての意味を明らかにする
2.有識者にとっての意味を明らかにする
3.有識者の学術的分析が当事者にどう見えるかを明らかにする

この1の当事者にとっての意味を明らかにするには、かれらの世界観を理解することが真っ先に必要なのです。ここを飛ばして2から入ることは、「よかれとおもって」繰り返される、専門知識の押し付けや、抑圧につながります。描く世界観の中に当事者を必ずいれて、専門知識を共有し、その知識をどう意味づけしたかを当事者に確認することで、ものごとの認識が再構成されていきます。

当事者との対話的な関係になるために重要なこと

問題に向き合うためには、困りごとを抱えた当事者との対話が必要となりますが、これが難しいです。というのも、「当事者が困難を抱えている」だけでなく、「その当事者に困難を抱える親や関係者」がいるからです。その親や関係者が、この先の生活の見通しが見えないや、家族関係がこじれているなどの「関係性の中の心配事」が大きくなっていることが問題の原因になっていることが少なくありません。また、過剰な不安や心配にとらわれた親や関係者により、当事者の自己肯定感や自己決定ができなくなることが「相互作用での困難さ」として表れてくることもあります。

こうなると、問題を当事者の困難に戻してあげることが重要となりますが、障がいや困難を抱えた当事者と向き合う親や関係者は「私が一番わかっている」という思いを持ちがちです。例えば、知的障害者は自分で結論を出せないので、誰かにコントロールされるしかないので、親の私がこの子をコントロールするべきだ、という前提を持ってふるまうということです。

こうしたコントロールする/される立場では対話はできません。なぜならこうした状況下の当事者は、親や関係者の一部とみなされたおり、同一なもの同士で対話はおきないからです。「これこそが正しい答えだ」と決めつけている人との対話は何もうみません。

対話的な関係になるには、「他の自己というものは決して完全には理解できないし、説明もできない。」立場をとり、いかに親や支援者であろうが当事者は完全には理解できない他者であることを認めて、接することが必要となります。

自分達の見方を押しつけるのではなく、相手の話を聞き、応答を繰り返すことで、新たな意味をつくりだし、共に考える開かれた対話性をもつことができるようになります。

問題に向き合うための意識化

NPOの代表に、活動を始めたきっかけをインタビューすると「その問題を知ってしまったからです」「目の前の苦しんでいる人をほっておけなかったか」と答えてくださることがあります。他の人には響かなかったことが、代表さんには響き、行動に結びついたこの違いは「意識化」されたかされなかったかによります。

意識化とは、差別された不平等な状況に置かれている人々が、自分の置かれている状況を客観的・分析的・批判的に読み解き、その状況を変革可能なものとして捉え、批判的意識へと向かう自らの自律的で継続したプロセスである。それは、不平等な社会を変えていく能力が自分自身にあることを自覚する過程ともいえる。(P173から抜粋)

この意識化には「コード化」と「脱コード化」が重要と、本書では言われています。

現実の状況のコード表示とは、その場面の構成要素とその相互作用をわかりやすく表したもののことである。脱コード化は、そのコード化された状況を批判的に分析することである。(P176から抜粋)

ここでいうコード化は、子どもの貧困や、引きこもり、自殺や過労死などの社会問題がなぜおきているのかを構造的にとらえることを意味します。システム図などで問題がおきている全体像を理解したり、当事者の話を聞くことで問題の真因を探ることなどを指します。その上で、「ホームレスは怠けている人なのだろうか?」「引きこもっている人は忍耐力が欠如している人なのだろうか?」といった問いから深堀りしていき、変えるべき制度や法律、社会通念、常識などに目を向けていきます。

この意識化のプロセスにも対話は重要な役割があります。2つあって、1つは対話する相手を、自身の経験からすでに知の所有者であり、物事を考え探求できる能力を持っていると捉えた上で、疑い、問い、考える「水平の対話」、もう一つは、「社会的通念で考えるとホームレスの人は努力を怠った人で自己責任で片付けられてしまうし、当初自分もそう思っていた。だが、とある当事者のインタビューで知ったことだが、キャリアを形成する20代・30代に障がいを持った弟のケアと、要介護の父、認知症の祖母の介護をずっとしていた人にそれを求めるのは酷ではないだろうか。もし、障がい児や要介護者を預けることができる施設や経済的負担なく利用できる制度、親身に相談にのってくれる支援者がいたら、今この人は違う人生だったのではないだろうか。そうした厳しい状況でも自立した人はいるが、そこを自己責任のハードルとして設定してよいのだろうか。自分が同じ立場だったら・・・」といった内面化された二重性に向き合う「垂直の対話」です。

水平の対話から既存環境における矛盾に気付き、垂直の対話で既存環境を受け入れている自分と変えなければいけないと気付いている自分との二面性に向き合うことを重ねることで、「今、自分でできることはなにか?」と意識化が進んでいくのです。

社会を変える実践

「これ以外にやりようがない・・・」現状肯定的なスタンスで発せられるこのセリフはよく発せられます。「今の制度上これ以外やりようがない」「前例がないからやれない」こうしたできない百の理由を言わず、できる一つの方法論を探し、実践することをこれまで多くのNPOがやってきました。そして、その実践を拡げることで、人々の認識の枠組みを変化させ、社会を変えてきたのです。

NPOが起こしてきた社会変革はこうした「対話」と「意識化」の繰り返しで成し遂げられてきたといえます。


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