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師とのご縁が、私を「ここ」に連れてきてくれた ~俳人 根来久美子さんに聴く

たった17音の俳句が持つ、底知れない力。その中を、俳人たちの話を聴きながら、様々な角度から光を当て、探検していく。今回は、「師とのご縁が、私を『この場所』に連れてきてくれた」とおっしゃる、俳人 根来久美子さん(以下、久美子さん)にお話を聴きました。

根来久美子(ねごろくみこ)さん
俳句歴20年。上智句会代表、ソフィア俳句会代表、結社「若葉」同人、日本伝統俳句協会会員、俳人協会会員。

2つの会を代表する

「この場所」とは、上智句会代表、そして、ソフィア俳句会代表という立場である。

上智句会は、上智大学名誉教授の大輪靖宏先生によって1999年に発足した。同氏の人柄や知見、指導力に、他の結社や句会を率いる俳人までもが慕い集まる句会である。久美子さんと俳句との出会いも、この句会だった。2001年、友人に誘われ、後輩の山本ふぢなさんを誘って初めて参加。それから20年が経った今年、高齢を理由に代表を退くことを表明された大輪先生は、この会の継続を久美子さんに託したのだ。

大輪靖宏先生
上田秋成や松尾芭蕉の研究で名高い日本文学研究者であり、俳人。上智大学名誉教授。日本伝統俳句協会副会長。国際俳句協会副会長。2016年横浜文学賞を始め、数々の賞を受賞されている。

一方のソフィア俳句会は、上智大学卒業生によって2013年に旗揚げ。当初は卒業生だけで運営されていたが、2015年に大輪先生を指導者として迎え入れた。その際、いずれ自身の後任が必要になるだろうと考えた大輪先生が、「一緒に」と声をかけたのが久美子さんだった。2017年、久美子さんは代表に。しばらくは、指導者である大輪先生を「顔」として、その下で久美子さんが代表を務めるという体制が続いたが、今年、やはり大輪先生が引退を表明。「代表」は、その重みを一層増すこととなった。

この2つの代表職に加え、久美子さんは、結社「若葉」同人の顔も持つ。「若葉」は、高浜虚子の高弟 富安風生が大正時代に創刊した俳誌を源流とする歴史ある結社で、現在は、鈴木貞雄氏が三代目主宰を務められている。この「若葉」と久美子さんを繋いだのも、大輪先生だった。久美子さんが上智句会に初参加した当時、鈴木氏は、そこに指導者としても参加されていた。その数年後、「若葉」編集部が人材を募集していると知った大輪先生が久美子さんを推薦し、「若葉」の編集に携わることになったのだ。


置かれた場所で咲く

こうして見ていくと、俳句への足掛かりも、その後の広がりも、「今の場所」に至る節々に、大輪先生が深く関わっている。

私は、大輪先生にとてもご縁がある人間なんです。まず、上智大学は推薦入学だったのですが、その時の面接官が大輪先生でした。入学後は、担任も、卒論の指導教員も大輪先生で。卒業すると、すぐ結婚してソビエトに行くのですが、帰国して先生のところへ挨拶に伺うと「ちょうど秘書の席が空くから」と言われ、文学部国文学科長だった先生の秘書になりました。だから、先生は恩師でもあり、上司でもあり、10代の頃からずっとご縁がある方なのです。

俳句も、大輪先生と会うために続けてきたところがあります。その先生が、私を今の場所に引き上げてくれたのだと思っています。元ノートルダム清心女子大学学長の渡辺和子さんが書かれた本のタイトル「置かれた場所で咲きなさい」という言葉が私はとても好きなのですが、まさに今その心境です。

上智句会の魅力は、多様性と包容力。一般的に、結社では、主宰の俳句が指針になるので、どうしても似たような俳句に寄ってしまうことがあります。でも上智句会では、有季定型を原則にしながらも、「俳句はこうあるべき」と縛りつけたりしません。どんな挑戦や試みも認めてもらえる土壌があります。それが私には心地よく、楽しいと感じられる理由でしたし、結社や句会を超えて俳人が集まる理由にもなっているのだと思います。そして、それを支えてきたのは、何といっても大輪先生の懐の深さだと思います。

そんな場を引き継いだ私は、この場所で、これから自分に何ができるかを考え、向き合っていきたいと思っています。

久美子さんは、ご自身について「決して能動的ではなく、受動的な人間」と評されている。大きな野心を抱くことなく、透き通った心で、俳句や句会という場に関わってこられたのだろう。だからこそ、縁が引き寄せられ、それがまっすぐに育まれてきたのではないかと思う。



俳句で人の本質を知る

久美子さんにとって、俳句の魅力は「何といっても句会」。それに出席するためのパスポートとして、俳句を作り続けてこられたのだという。

私の場合、人の俳句を味わいたくて句会に参加している、と側面が大きいです。「こんな良い俳句に出会えた!」という喜びを感じるんです。もちろん句誌や句集でも良い俳句には出会えますが、一人で思って終わってしまう。句会では、それを他の人たちと共有することができます。しかも、いろいろな角度からも光が当てられるので、句がさらに輝きを増すのです。

俳句って、17音しかないのに、驚くほど人の本質が表れると思います。そこが俳句の凄いところ。たとえば自己紹介でも、その人の話すことより、俳句のほうが、ずっとその人のことを理解できることがあります。句の中には自然のことしか書かれていなくても、その人の物の見方や感性がわかったり。長年の句友でも、俳句を見て「こんな一面があったのか」と、いまだに驚かされることがあります。普段の会話ではわからない本音が表れたりするんですよね。

だから、句会は本音がぶつかり合う場だと思うのです。それが面白い。しかも無記名で、先生も若手も同じ土俵で評価し合いますから。そこで他の人の本音が見えてくるし、自分の本音もわかってもらえる、そんな感覚があります。私以外の誰にも選ばれなかった句があったときには、「私には届いているよ!」と作者に伝えたくなってしまいます。

俳句を通じて、普段とは違う次元で交わされるコミュニケーション。それが、久美子さんを俳句、そして句会に惹きつけ続けてきた。そのコミュニケーションは、俳句の向こうにいる他の俳人だけではなく、俳句の向こうにいるご自身との間でも交わされる。「俳句を通じて、自分が知らない自分、自分が気づかなかった自分に会えることも、俳句の魅力」だと語る。


これまで、これから

これまでは、師の近くにいて指導を受けられる立場だった。けれど、師が一線を退かれ、ご自身が代表を務めることになれば、指導される機会はどうしても減っていく。俳句との向き合い方は、変わっていくのか。

私は、移動中に俳句を作ることが多いんです。電車の中だったり、買い物の帰りだったり、外をうろうろと歩いているときだったり。そこで得た発想を基に、毎月いくつかある締切りに間に合わせるように完成させていきます。でもこれからは、やり方を変えていく必要があるかなと考え始めました。

指導してくれる人がいなくなって、自分しか自分の句を評することができなくなったら、どうすればいいのか。「若葉」主宰の鈴木先生には、「主観を捨てて、客観視するしかない」と教わりました。先生は、作ったものを一度寝かせて、忘れてしまうのだそうです。そうしてから、もう一度取り出して、他人が作ったもののように見るのだと。それを聞いて、自分の句を客観視するために大切なのは「時間」なんだなと、そういう心構えを持たなければいけないのだと感じました。

他の人の句に対しては、もっと色々な角度から見られるようにならなければと考えています。自分の力が足りないがために、誰かの良い句を見逃してしまうことがないようにしたい。他の人が気づかない「光るもの」を見つけられる力を、もっと養っていきたいと思っています。

俳句を始められてから20年。いま、大きな節目の時を迎えられている。それでも「できることをやっていくだけ。それでしか続かないから」と、等身大の姿勢は変わらない。これまでも、これからも、置かれた場所で、咲き続ける。これまでのご縁に感謝しながら、その場所で出会う人たちとの深いコミュニケーションを楽しみながら。


久美子さんの俳句

久美子さんの句は、水彩画のような明るく柔らかな色彩や、優しく音が跳ねるような調べが魅力的だと常々感じてきました。上智句会集「すわえ」で発表された作品の一部をお借りして、その魅力を改めて味わいつつ、今回の探検を終えていきたいと思います。「17音の中に、驚くほど作者の本音や本質が表れる。」そんな鑑賞の楽しみ方にも、習いながら。

橋潜る度に光の増す二月
調律師来れば春の色に音
聖五月真珠育む海の凪
どの子にも優しき家路大夕焼
風鈴のやはらかく添ふ夜半の風
ためらひは風にもありて薄紅葉
桐一葉人を羨むことをやめ
獺も思ひ出並べ年忘
(上智句会集「すわえ」第15~19号より)

次は、どんなお話に出会えるでしょうか。



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