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どう書くかより、何を書くか。とはいえ。

ずいぶんと昔から、書くことに興味を持っていた。

小学校の時、クラス名簿に並ぶ名前を眺めるのが好きだった。一つ一つに、名付けた人の気持ちが透けて見えてくるような、名前という造語たち。自分のクラス名簿だけでは飽き足らず、弟のクラス名簿まで手を出した。

先生が、クラス全員に「○○チャンピオン」と命名してくれたとき、わたしは「作文チャンピオン」の称号をもらった。その頃に書いた作文をつい最近見つけて読んだら、笑えるくらい酷かった。夏休みの旅行の作文は、行く前のことばかり一生懸命書いて、そこで力尽きて肝心の旅行については1行で終わっていた。先生も、他に褒めるところが見当たらなかったのだと思う。

小学校で使うノートには、ひたすら何かを書き連ねた。表紙も、裏表紙も、びっしりと独り言で埋め尽くされていた。そのノートを見た父親が「あんた、面白いね」と言ったのは、父との会話の数少ない記憶の一つである。

小学校の卒業文集に「将来の夢」を書くことになり、しばらく迷ったのちに「作家になりたい」と書いた。クラスの9割方が地元の中学に行く中、都心の進学校に行くことが決まっていた。「作家になりたい」という言葉と、進路選択は、かすってさえいなかった。

大学の受験勉強では、小論文が好きだったし得意だった。予備校では、模擬テストで書いた小論文が取り上げられ、それを巡って目の前で先生たちが熱い議論を交わしているのを見て、胸が熱くなった。

でも、それからも本気で作家になろうと頭にハチマキを巻くことはなかった。憧れの人を密かに思い続けるように、書くということに対しての少し特別な想いを持ち続けていたにすぎない。

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大学の専攻は、国際関係法だった。文学よりも社会に役立つだろうと思ってのことだったけれど、関心は法律よりも、書くことに向いた。それで文学部に越境して、文章を書くクラスにもぐりこんだ。

初めのうちは好調だった。最初の課題が、次のクラスで事例として取り上げられた。でもそこから、転げ落ちるように書けなくなり、評価もされなくなっていった。

そこで、はたと気がついた。問題は、どう書くか、ではなくて、何を書くか、なのだと。自分には、書く技術という以前に、書くコンテンツが圧倒的に足りないのだと。

そこで、「書き方」を学ぶのをやめて、「書くこと」をつくるような生き方をしようと思った。そうして一人で海外を旅したり、超氷河期の就職でとても苦い経験をしたけれど、何が「書くこと」につながる生き方なのかはよくわからなかった。

数年後、仕事に行き詰まりを感じて、やっぱり書くことに向き合ってみようと思ったこともあった。けれど、村上龍さんの「13歳のハローワーク」に足止めをくらった。既に倍くらいの歳ではあったけれど。

13歳から「作家になりたいんですが」と相談を受けたら、「作家は人に残された最後の職業で、本当になろうと思えばいつでもなれるので、とりあえず今はほかのことに目を向けたほうがいいですよ」とアドバイスすべきだろう。 ---(中略)--- 作家が「一度なったらやめられないおいしい仕事」だからではなく、ほかに転身できない「最後の仕事」だからだ。服役囚でも、入院患者でも、死刑囚でも、亡命者でも、犯罪者でも、引きこもりでも、ホームレスでもできる仕事は作家しかない。作家の条件とはただ1つ、社会に対し、あるいは特定の誰かに対し、伝える必要と価値のある情報を持っているかどうかだ。伝える必要と価値のある情報を持っていて、もう残された生き方は作家しかない、そう思ったときに、作家になればいい。
「13歳のハローワーク」(村上龍)

やっぱり、何を書くか、なのだと。そういう生き方をすることのが先なのだと。まだ「最後の仕事」につくだけの準備と覚悟はできていなかった。

それから、転職をして、退職をして、無職になって、無謀な留学をして、好きな仕事をして、でも収入は半減して、突然の病気にもなった。でも何が「書くこと」をつくる生き方なのか、よくわからない。いや、何となくわかっているのだけれど、それができない。

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だからまず、書き始めてみることにした。書くために、書く。かつての自分なら、一瞬で否定するような行動だけれども。

これまでは、バスタブの栓を閉めて、何とか水を溜めようとしていた。でも、その水が淀んできた。

だからいま、その栓を抜いてみる。溜まった水はあっという間に流れ出て、また空っぽになるかもしれない。でも、淀んだ水に沈んでいた何かが、そこに姿を現すかもしれない。空っぽになったら、また蛇口をひねればいいし、そこに、恵みの雨が降り注いでくれるかもしれない。

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