見出し画像

「データに基づいて」は、いつだって客観なのか

「データに基づく」とか「エビデンスに基づく」という言葉が溢れている。この言葉には、あたかも、論争に一つの正しい答えを与え、意見のぶつかり合いをピタッと収め、両者を握手させる力さえ持つかのように思わせる。まるで、法廷で鳴らされる木槌のように。まるで、天から降ってくる声のように。

本当に、そうなのだろうか。

コロナやワクチンを巡る議論を見ていて、そう思うことがある。ワクチン推進派も、反対派も、どちらも「データに基づいて」自身の立場の正しさを主張する。あるいは、相手の立場を否定する。

もちろん、そこには「データ」そのものの信ぴょう性や、算出方法の妥当性についての揺らぎがある。でも、同じ「データ」に基づきながら、意見が食い違うことも往々にして起こる。

結局、データはいつも、それを「どう見るか」セットだからではないか。

コップに8分目まで水が入っている。ある人は「80%満たしているから十分だ」と言い、ある人は「20%も足りないのは問題だ」と言う。

労働力人口の42%を女性が占めている。ある人は「かつてに比べれば十分に高くなった。ほぼ平等だ」と言い、ある人は「人口は50%なのだから、まだ不平等が大きい」と言う。もちろん42%という数字だけではなくて、その中身も大事という議論もあるけれど(たとえば非正規が多い、とか)。

どちらも同じデータに基づいている。データに基づいて、意見が食い違っている。

同じデータを見ても、ワクチンの有効性を信じる人は、有効性を示すものとして見るし、ワクチンの危険性を恐れる人は、危険性を示すものとして見る。データは、沈黙している。その声を聞くのは、人間である。

人間は、主観的な生き物だ。だからこそ「データ」という客観的なものを頼りに、できるだけ客観的に真実を見ようとする。見たいと思う。だけれども。

「データに基づく」、「エビデンスに基づく」。それは、剣をペンに持ち替えて、絶対的な正義を唱えているつもりで、結局は剣を剣のまま握りしめているだけなのかもしれない。

もちろん、データやエビデンスに基づくことの意義は、まったく否定できない。真摯にデータを見て、そこに真実を求める、人類としてのより良い答えを導こうとする姿勢は、いつだって大事で尊い。そして実際に、社会はそうやって進化をしてきた。

でも同時に、人間は客観的にはなりきれない。データと向き合う、そのわずかな隙間に、いつだって主観が滑り込む余地があるということを、認めることが必要なのかもしれない。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?