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【Steam】牛乳を買いに行こうシリーズであれこれ妄想する

これとこれ

ストーリーや主人公の考察は他の人に任せるとして、自分は彼女の「ノベル・アドベンチャーゲームとしての立ち位置」を考えていきたい。感想?考察?どちらでも。

Milk inside a bag of milk inside a bag of milk はメタ作品なのか?

まず今作の概要は「明らかに何らかの精神疾患を抱えている女性とやり取りしながら、牛乳を買いにいく」であり、ビジュアルノベルの形式をとっている(少なくとも作中ではそう主張している)

この女性はコミュニティでミルクちゃん(milkchan)と呼ばれている。

1作目ではプレイヤーはミルクちゃんとのやり取りにて選択肢を選びながら、牛乳を買えるよう誘導していく。選択肢を間違える……というより彼女に対して敵対的な選択肢を何度か選ぶとゲームオーバーとなる。

ここで気になるのが、この作品にはメタ的な要素が言及されていること。

①ミルクちゃんいわく
「もし誰かがわたしの頭の中を覗いてるなら、余計なこと考え過ぎないように気をつけないと」
「こういうゲーム、何て言うのか思い出した!ビジュアルノベルだ!」
「わたしはビジュアルノベルのキャラクターだから、今これを読んでる人なら誰でもいいから話がしたいの」

この証言だけを読むなら
〔ミルクちゃんはこの世界がビジュアルノベルだと認識している〕
〔ミルクちゃんはプレイヤーを認識している〕

②一方でこんな発言もしている
「自分が何かのゲームのキャラクターだったらって、考えてみてるの」
「君はわたしが作ったんだけど」
「今日はお店に行くのにビジュアルノベルのキャラクターになりきろうと、ふと思ったんだ」

その言葉を信頼するならば〔ミルクちゃんは今日はビジュアルノベルのキャラになりきっている〕→〔その過程でプレイヤーという架空の対話相手を作り出したことに。

①②を素直に関連付けるなら、今作がビジュアルノベルの形式をとっているのも、君(プレイヤー)がいることも、全てミルクちゃんの妄想ということになる。

精神的に不安定な人物ならば、多重人格に近い心理状態になることもある。幼い子ならばイマジナリーフレンドを心に養うこともある。そういった事例を作品に落とし込む。

つまりこうだ。

メタ的に見えるが、実際にはメタ要素は一切存在しない。

ミルクちゃんは第四の壁を認識しているように見えるだけで実際にはしておらず、プレイヤーも作中に干渉などできてはいない。メタに見える奇抜なビジュアルノベルだ。

おわり。

……と、一度は結論してみたが、これではつまらない。

個人的にもうすこし奇妙な方向に議論をひろげてみたい。ここからは「こうだったら面白いな」と憶測に基づいているので注意。

信頼できない語り手"milkchan"

いまいちどミルクちゃんの性質を書き出す
「明らかに何らかの精神疾患を抱えている女性」

ミルクちゃんが見て認識しているもの、口にする言葉は、素直に受け止めるには難しいものが多い。

例えば、1作目においてミルクちゃんがスーパーで出会う者たちは異形ばかりで言葉のやり取りすらままならない。

ところが2作目には1作目を描写したと思しきOPアニメが用意されており、こちらだと周りにいる人々は普通の人間として描かれている。

1作目がミルクちゃんの主観で、ミルクちゃんから見ると周囲の人々は異型に見えている……と判断することができる。

1作目はミルクちゃんの主観で進行していると考えられるわけだが、この娘の主観を果たして信頼してよいのだろうか?

さらに2作目の話になるが、興味深いところがある。ミルクちゃんは2作目でもプレイヤー(彼女が作り出したもの)とやり取りするわけだが、なぜか多重人格をほのめかすセリフまで見受けられる。

③「ずっとあなたの番だったでしょ、次は私の番!」

これは1作目における①、②を踏まえると違和感を覚える。即興で作り出したイマジナリーフレンドなのに、人格の主導権が入れ替わるほどに力関係が釣り合っているとでも?

(いちおう③に関しては、これがプレイヤーが読み進めるノベルゲームであることを皮肉気味に指しているとも読み取れる。今から対話になるから、あなたが読み進める番は終わり、と。

ひとまず今は多重人格という線で話を進める)

また2作目のあるイベントにおいてミルクちゃんが記憶を捏造していることが分かる。それが意識してか無意識のものかは定かではない(作中の描写的には無意識だと思われるが)。

ハッキリしているのは、ミルクちゃんはプレイヤーに対してすら事実を隠すことがあるということ。

以上から分かるとおり、1作目と2作目の間ですら事実関係に齟齬が感じられる上に、事実も隠されている。そのためミルクちゃんが語る言葉を疑わざるをえなくなる。ここに信頼できない語り手が浮き彫りとなったわけだ。

こうなると、前提が読めない。

関連付けることができた①②ですら実は関連性などないのではと思えてくる。いや、むしろ主観性の高かった1作目こそまっさきに疑いの目を向けるべきだろう。

①だけを取り出すと、ミルクちゃんはプレイヤーを認識しておりプレイヤーも作品に干渉できるメタ構造のゲームということに。

②だけを取り出すと、全てはミルクちゃんが即興でシミュレーションしているロールプレイに過ぎないということに。

③だけを取り出すと、ミルクちゃんは多重人格者であり、その一部をプレイヤーが担っているということに。

果たして……

不定こそがこの作品の本質か

自分は初め、このゲームを〔メタ的な作品〕だと判断した。1作目をやり終わった時には〔メタに見せかけた作品〕だと思った。2作目をやり終わってみると……分からなくなった。

だが、それこそが本質かもしれない。

このゲームは形が定まらない。それは、不安定な精神により行動言動がことごとく乱れるミルクちゃんを、まさしく反映したようなものだ。それゆえプレイヤーは好き勝手に解釈できる。

結局のところ「解釈がわかれるゲーム」でしたと、結論だけをみるとありふれている。しかし個人的には、その原因が主役たるミルクちゃんの妄想と確信なき言動によってのみもたらされている点が面白い。

その点でいえば③を引き合いに出すが、「ずっとあなたの番だったでしょ、次は私の番!」が多重人格を指したものか、あるいはノベルゲー形式を皮肉ったものか、この一文ですら解釈が分かれてしまったわけで。

そういえば作中に出る怪物と、彼女が住む異様な構造のアパート。あれらも彼女がそう幻覚しているだけと判断できるが、もしかすると……?


最後にもう一度いうが、ここまで長々と記した内容は「こうだったら面白いな」という憶測に基づいていることに注意。

また解釈の足場にしているのが原文ではなく日本語訳だ。原文で明示されていたか明らかにそれと断定できたかもしれない、そんな情報を見逃している可能性は否定できない。

それはそれとして、このような解釈で遊ぶことができるのは今作の美味しいところだろう。読み物かくあるべしといった感じだ。2作目の各種エンディングも想像の余地が広がるし。

好きなエンディングは「全部うまくいく」

かしこ

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