感情がわからないから言葉しか頼れないので常につまずく

目標を持って生きる。私にはまったくわからない。私にとって生きるとは死ぬまでの時間つぶしだ。人生は全て運で決まる。努力したって運が悪ければ報われないまま終わる。逆に努力しなくても運がよければうまくいく。努力が報われたと実感した試しがない私は本当にそう信じている。

昨日のことだ。サンダルを洗ってベランダに干しておいたら、履いたとき足の裏に接するゴムの部分が高温によって縮んでしまい接着剤が剥がれてしまった。近所の商店街に腕も気もいい靴の修理屋がある。そこに持っていくことにした。

「ベランダに干してたら縮んで剥がれちゃったんです。このままじゃ履けませんよね」私は袋からサンダルを取り出し剥がれた部分を店員に見せた。
「いや、別に、履けはしますけどね」いやいや、あんた。俺だって履けはするってことくらいはわかるよ。以前別の靴の修理を依頼したときは持参した靴の状態を気にしながら受け答えしてくれる感じの良い店員が対応してくれたのだが、今回はそれとは別の店員でどことなく無愛想だ。

「でも、(このまま履いてたら)壊れちゃいますよね。これ履いてそこそこの距離を歩くんですよ」
「そりゃあ、まあ、履いてたらいつかは壊れますよ」
形あるものはいつかは壊れる。そんなことは私でも知っている。私は莫迦にされた気がしてならなかったが、そこはこらえて修理可能かどうか尋ねた。
「縮んだ部分を引っ張って伸ばしながら貼り付けることはできますよ」
「おっ! それは嬉しいです」人が怖い私は例によって必要以上のサービス精神を発揮し、店員の言葉に対して大げさに喜んでみせた。
「まあ、引っ張った分だけねじれてしまいますから、履き心地も悪くなりますけどね」私はこれを履いてそこそこの距離を歩くと彼に言ったつもりだ。

結果、引っ張ったりせず、そのまま貼り付けてもらうことに落ち着いた。そのまま貼り付けても履くには問題ないと店員は言う。だったらなぜ最初にその提案をしなかったのかが不思議だ。

以前、飲食店に行ったときのことだ。店員が来店人数を確認した後、私たちを席に案内する道すがら、「窓際の席にご案内させていただこうと思っておりまして、そこは少々冷房がきつくなっておりますが寒いのは平気でしょうか」と尋ねてきた。私も連れも寒いのは苦手なので別の席にしてほしいと店員に伝えたところ、その店員は間髪入れず友だちに対するような口調で、「え! うそっ」と言ってきた。その瞬間、私も間髪入れず、「なんでわざわざ俺がお前に嘘をつかないといけなんだよ」と突っ込んでいた。

私は人と感情的につながっていない。そんな私が人の感情を知るためのツールは言葉しかない。だから言葉に引っかかる。人と感情を共有できていればサラッと流せることであっても、私は言葉につまずく。

この癖を改めるのは無理だ。今となっては改める気力もない。私には人並みに人とうまくやっていく能力がないのだ。先天的なものではないにしろ、人と適度にうまくやっていく能力が欠落してしまっている。
五〇歳だ。今更癖を改めようとするよりは、能力が無いというのを認めてしまったほうが楽になれるし、少なくとも今よりはうまく生きれるはずだ。

もう人並みの社会復帰は望まない。それでいい。社会復帰というイメージをゴールに設定しても出来ないという結論にしかたどりつかないので苦しくて仕方ない。もう疲れた。努力が報われるという普通の人たちが共有するルールを元にして作られた世界では生きられなかった私なのだ。

私にとって生きるとは死ぬまでの時間つぶし。苦しみで時間をつぶしたんじゃ勿体ない。
「そんな生き方無理に決まってるじゃん」
世間でそう言われるところにこそ活路を見出す。

ー 終わり ー




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