クレイジーマザーのくれた緊張を忘れるために緊張を生む

今日はいつもテレワークをしている妻が出社する日だった。普段より早く起きる妻。それに合わせて布団から出る私。妻は出社の準備に忙しい。無職の私がのんびりしていたら妻の機嫌を損ねてしまう。

私は普段にも増し、起きてすぐ積極的に動き回る。食器を片付け、トイレを掃除して、ベランダの鉢植えを日の当たるところへ移動させ、部屋に掃除機をかける。妻への恐れから生まれる「私は決して怠けていません」というアピールだ。

妻が出かけると一人になれた。でも一息などつかない。無職の私が今一番時間を費やしていることが蔵書の電子書籍化だ。本を分解してスキャンしPhotoshopで傾きを調整するという作業を繰りかえしている。

無職の自分に何もしない時間があってはならない。とにかく手を休めない。

五〇歳で無職。人が怖くて就活もできない。そんな私のこの先の人生についてPhotoshopでスキャン画像をPDF化する作業をしながら延々とネガティブに考え続けている。

ホッとしてはいけない。安心してはいけない。動き続けろ。やることがないなら探せ。止まるな。止まったら死ぬぞ。

幼い頃からずっとそうだった。ゆっくりするというのは怠けているということだ。自分のような人間は怠けてはならない。怠けたら世の中に必要ない人間になる。居場所が無くなる。何より怠けたら母の機嫌が悪くなる。母の喜ぶことをして母の機嫌をとれと自分を追い詰める緊張の毎日だった。

余談だが幼いころも今も昼寝というものを私はほとんどしたことがない。昼寝というのは懈怠の典型的なものだと考えており罪悪感しか生まないからだ。ただし電車で一人のときはよく寝る。

妻がいるときは妻を恐れ緊張し、妻がいなければ自分で自分を追い込んで緊張する。誰といようが、一人だろうが、ずっとずっと緊張しっぱなしの人生だった。

私は緊張を作り出すことで心を支えてきたのだ。緊張するのをやめてしまったら、人とつながっていない私には生きる理由が無くなってしまう。緊張に耐えるという義務がある限りは生きていられるのだ。

痛みを忘れるために新たな痛みを作るかのように不安を忘れるために新たな不安を見つけ出す。絶望的な闇だ。

でも私はこの闇を見つめ続ける。逃げない。ただしこのブログを書いたら酒を飲むからある意味逃げることになるけど......

見つめ続けることで心が動きはじめ、見える景色が少しずつ変わっていく。それをこの一年で何度も経験した。だから諦めない。だから諦めるな。いいか諦めるなよ。絶対に諦めるな。諦めたら怠けてることになるからな! 諦めるな! 怠けんな!

業が深い。

ー 終わり ー

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