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使ったら洗うのだけどそれはまた汚すためだと思う虚しさ

朝目が覚めると不安で仕方ない。物心ついてから毎朝同じだ。だから目が覚めるとすぐに布団から出る。布団から出て何でもいいからやりはじめる。不安を忘れるためだ。

常にどこかに不安を感じつつなんとか一日をやり過ごす。やっと慣れた頃に一日が終わる。明日も不安からの出発だ。そう考えると嫌になる。無理やりにでもリセットしたくて酒を飲む。酒に依存している自覚はある。

今朝も目覚めると安定の不安が襲ってきた。何が不安なのだろう。真っ先に思い浮かぶのは収入に関する不安だ。51歳で無職。人が怖くて引き籠もっている。仕事をはじめる気になれない。だとすればどうやって食べていくのか。

収入がない。それが私の感じる不安の本当の原因なのか。もしそうなら私の不安は無職になったときの三年ほど前からはじまっているはずだ。しかし不安は幼い頃からある。だったら不安の原因は別にあると考えた方が理にかなっている。

不安を遡ってみた。小学生のころからとにかく死ぬのが怖かった。死ぬのが怖くてみんなと同じように楽しめない。休憩時間になると外に飛び出して遊ぶ同級生たちを校舎から眺めながら、いつも思っていた。「みんないつか必ず死ぬのに、なぜこれだけ楽しそうにできるのだろう」

私が死を怖れた理由は死んだら地獄に堕ちると信じていたからだ。ちなみに今も若干信じている。僧侶の祖父が地獄の本を所有しており物心ついたときから様々な地獄の絵を見せられてきた。焼かれ、裂かれ、刺され、殴られ、泣き叫ぶ人たちの阿鼻叫喚図。怖くないわけがない。

とはいえ多くの人が幼少期に一度は死を恐れる。しかしそのうち忘れていく。私の場合は忘れられなかったのは生きてるだけで苦しかったからだ。生きる苦しみよりも地獄の苦しみの方が勝るとなれば、もう居ても立っても居られない。生きるも地獄、死ぬも地獄。生きりゃいいのか、死ねばいいのか、わからない。

人は母から愛されて自分の存在を肯定できるようになる。自分は存在していい、生きてていいと思えるようになる。私はあの世にもこの世にも居場所を見いだせない。生きてていいとも、死ねばいいとも思えない。つまり私という存在自体、私の意識が無くならない限り私に平穏は訪れない。

買い物をする。物を得た喜びよりも消費されたお金を惜しむ気持ちが勝つ。イベントに参加する。楽しみよりも終わりがくる悲しみを思いイベント自体を楽しめない。食器は使えば汚れる。また次に汚すために洗わなければならない。なんでそんな無駄な行為を繰り返さなければならないのか。

全てがそんな感じだった。自分が存在してていいとは思えないのだから何を見ても何を体験しても全てを否定的に解釈してしまうのは当然だ。

「あなたは存在してもいいんだ」と言い聞かせようとしても無理だ。言い聞かせて肯定できる人っていうのはすでに自分の存在を肯定できている。ちゃんと誰かに愛された育ってきた人で何か事件があって一時的に肯定できなくなっているだけだ。

極端な言い方になるけど私の場合は死んでもいいと思えたときから生への肯定がはじまる気がする。死んでも終わりじゃないと私は信じている。死んだって今この気持ちのままあの世に行くだけだと思っている。だから私にとって死んでもいいと思えたときというのは生きていてもいいと思えたときというわけだ。

まずは自分を否定するこの気持ちをとことんまで味わってみるか。

ー 終わり ー

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