誰といて何をしてても俺は俺だと確信を持つための意地

俺のこれまでの人生はいったいなんだったんだろう。記憶はあるが思い出はない。努力によって勝ち得たもの。達成感。満足感。積み重ねてきたものが何もない。

過去と無縁の今。未来を変えない今。今だけが点として存在する。どれだけ今を繰り返しても点と点はつながらない。時間だけが過ぎていく。

根気がない。忍耐がない。俺という人間を世間の人はそう解釈するのだろう。

「こんな履歴書じゃ、あなたという人間がまったくわからない」
「うまくいかない人生というのは、あなた自身に原因があるのではないですか」

会って5分もたってない人にわかったようなことを言われたことは何度もある。履歴書みたいな紙切れ一枚でこれまでの俺の人生をわかられてたまるかと思う。うまくいかない人生の原因は自分にあるのも十分承知している。

うるさい、ボケ。いい時代しか経験してこなかった説教好きのクソジジイども。

履歴書の情報によってくだされる人格への判断が大枠では間違いではないといい切れるのは社会で生きる場所を見つけられた人間だけだ。人と気持ちでつながっている者同士の話しだ。

ひとつやり通したと言えるものは何かと問われれば、俺という人間を曲げずに生きてきた、俺でいつづけるため一切の妥協をしなかったと答える。当然ながらそんな答えは世間ではまったく評価されない。

なんでこんな人生なんだろう。ただ普通でいたかった。

「イマココさんはこんな会社で働いてる場合じゃないよ。もっと面白いことができる人だよ」と以前勤めていた会社の先輩から言われたことがあった。その先輩は会社の金を横領して去っていった。

お前の方がよっぽど面白いことしてるじゃねえか。嫌味かよ。無責任なこと言ってんじゃねえ。小銭パチリやがって。

人を愛したかったし、愛されたかった。人に喜んでもらえることを喜びとしたかった。普通の人が普通に感じる喜怒哀楽で生きたかった。

原因は母親から心理的ネグレクトを受けたことにあるのは間違いない。でも母親を恨む気にもなれない。恨んだって詮無いだけだ。わかっている。だけど、「こんなはずじゃなかった」「なんで俺が?」とは思う。そう思いはじめるとその気持ちが止められない。

心理的ネグレクトを受けることで人とつながれないまま生きてきた俺にとってどうなったら虐待を克服した状態だと言えるのだろうか。

もうなんとかしてくれ。死にたくはないけど、こんな世界に熱烈に居たいとも思わない。半分空気くらいの存在になってこの世に居させてもらうわけにはいかないのだろうか。

死さえ受け入れてしまえが何も怖くなくなるという思いがずっと消えない。それは死さえ乗り越えてしまえば何があったって生きていけるという意味だと思いたい。本当の死を選ぶという意味ではなく。

ここ数日荒れている。人が嫌でたまらない。この気持ちが消化できない。
何の責任も負わず、自分が心地よくなるためだけに威張り散らして、俺の居場所を奪ってきたブタ野郎どもに何らかの不幸がありますように。できることなら彼らに起こった不幸の情報が私の耳にも入りますように。

人を呪わば穴二つ。でも我慢するのはやめたい。宗教の戒律に苦しむのもやめたい。

正々堂々、人を、世を、恨んでやりたい。くたばりやがれ、くそったれ。腐れ外道ばかりが幅を利かせる世の中だ。荒れて荒れて、荒れきってしまいたい。

ー 終わり ー


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