父母の死を悲しめないのも、親子の姿に感動するのも同じ私という事実は矛盾ではない

半年前に父が亡くなった。
父は母に負けず劣らず難しい人だった。父は知的には何ら問題のない人だったが、何を伝えたいのかまったくわからない話し方しかできない人だった。意味のわからない説教が延々と続く。酒を飲むと特にたちが悪かった。晩御飯の時間は酒に酔った父の演説を延々と聞かなくてはならず、苦痛で仕方なかった。
父が死んでも私は泣くこともなく、今のところ父の死を悲しむという感情は私にはわいてこない。

順番でいけば次に亡くなるのは母だ。
私の気持ちを一切理解することがなかった母。母が亡くなったとしても父のときと同様、私は悲しまないだろう。そんな自分が恐ろしいのだ。

母から受けた心理的ネグレクトが原因で感情的に人とつながることができない人間になってしまったので、愛別離苦の気持ちが人と比べて格段に弱いのは仕方ない。

問題は私が感情を持ち合わせていない人間ではないということだ。

感情を持たない人間なら父母の死を悲しめないのも当然だし、悲しみを感じない自分を恐ろしいとは思わない。私には喜怒哀楽の感情がしっかりあるからこそ悲しみを感じるべきところで感じない自分の異常さがわかるのだ。

家から徒歩三〇分くらいのところに天気の良い週末は数百人規模の親子連れが集う公園がある。
先日の週末の昼間。親子連れで賑わう公園の地べたにシートを敷き、公園に集う人たちを眺めならが酒を飲んでいた。

公園には子を愛する親たち、親の近くで安心して遊ぶ子どもたちがいた。
美しい緑。鳥の鳴き声。心地よい風。青い空。暖かい太陽の光。
親子の愛と自然が完全に調和していた。
そこにあるものすべてが一体となって美しかった。
涙が流れた。近くに人がいなかったのがラッキーだった。思い切り泣いた。

父母の死を悲しめないのも私。
公園で触れた美しさに涙したのも私。
どちらも間違いなく私。

良い悪いをいったところで何もはじまらない。
そもそも最近では何が善で何が悪かなのか、わからなくなってきた。

自分の感情を味わうという作業は地味だ。嫌になるときもある。馬鹿馬鹿しくなるときもある。こんなこと意味なんてないと思うときもある。
でも今は良いも悪いもひっくるめて自分の気持ちを味わうことしかできない。そこからしかはじまらない。苦しい。諦めない。

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みなさま、本日もありがとうございました。
これにてご無礼いたします。
ごきげんよー



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