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中今(なかいま)状態

「中今(なかいま)」や「今ここ」ということが、盛んに言われるようになってから、だいぶ久しい。

だいぶ久しいと言いながらも、一体いつくらいからブームになったか?を振り返ってみると、およそ、山羊座に冥王星が入った2008年頃からだったのではないだろうか。

わたしは、この状態が悩み無き世界であることは、2003年頃から気が付いていた。というのも、2003年に人生が急変したので、その時のことは、鮮明に記憶に残っていることも、いろいろとあるのだ。

ただ、その頃は、「中今」という言葉は知らなかったから、自分的には「第一義的現実」という名前で呼んでいたし、十牛図のお絵描き講座の第九図で、この「中今」や「今ここ」は、使っていた。

この「第一義的現実」という世界は、身体を持って地球を生きている世界である。ここでは、わたしたちの頭の中を覆っている「社会的現実」や「過去の記憶」は、いったん全面消去されている。

この「中今」や「今ここ」の状態になるのは、そんなに難しいことではない。頭を空っぽにすれば、それだけで、いくらでも「中今」や「今ここ」に居ることができる。

頭を空っぽにする、つまりこれが、無心ということなのだろうと、私は思っている。

この無心な状態は、野口整体のほうで、他の人に対して輸気(ゆき)をするときの、基本条件というか、ある意味、絶対条件でもあるように思う。何も考えずにボケッっとする。気が流れる空っぽの筒になるような。

この状態になると、呼吸は落ち着き深くなる。ある種の瞑想状態にも近いと言えるのだろうと思う。「気」は「エーテル体」ということもできるのだろうと思うのだが、それが活性化するので、気持ちも良い。

この無心の状態は、「中今」や「今ここ」にしか、存在しない。記憶として過去にも存在するとしても、それはあくまで記憶のはなしで、この輸気(ゆき)をしている状態、エーテル体が流動して満たされているのは、現在進行形の「中今」や「今ここ」にしかないのだ。

こちらの「中今」や「今ここ」を、仮に女性的な「中今」や「今ここ」としておくとすると、もう一つ、男性的な「中今」や「今ここ」もある。

それは、今やっている行為の中に没頭して、夢中になるような姿勢の中にある。いわゆる「ゾーンに入る」というのは、こちらの能動性と共に「中今」や「今ここ」に居る状態の中で起きる。

この女性的・男性的の、いずれの状態で「中今」や「今ここ」にいるとしても、こここそが永遠の場なので、一般的な日常意識の中には無い、いろいろなものとの接触が起きる。

今ここを生きるのメモ。 (2011.11/30)

今、ここに居ることに、意識を置いて生きるということ。(おおにして、過去の記憶や、未来の予想の中に、移動している時間が多いので。)中心点を、他では無い、今、ここに居ることに、置くこと。この世界は、あんがい平穏な世界であることが、多いことに気がついたりもする。

この「今、ここ」の第一次的現実界には、地球で生きているということもあるけれど、わたしたちの場合はその上に、人間社会で生きているということも、重なっていると思う。ときにこの社会性の世界は、そのおおもとにある「地球で生きている」ということを、覆い尽くし見えなくさせていることも多い。

十牛図の第九図では、「里」ではなくて「山」に行くので、今、ここに居るということの第一次的現実は、里での社会性から抜け出し、限りなく「地球で生きている」ということ、その一色に近づいて行くということでも、あるのだ。

本質と現実、この二つは、根源的には同じところから出ているんだけど、
本質を「あるがまま(妙・みょう)」、現実を「解釈(徼・きょう)」と言う。

そして、この二つの現実が同時に現れている場を「混沌・カオス(玄・げん)」と言う。

この「混沌」を生み出した、さらに奥深くにある「闇(玄のまた玄)」。そこにすべての存在基盤がある。

存在基盤が「闇」だなんて言われると、ちょっと意外に思うかな?

でもね、考えてごらん。「光」をつけたり消したりすることはあるけれど、「闇をつける・消す」ことはないだろう?

常に、闇という舞台の上で、光という性質の波が動き回っているんだ。

『マスターからの手紙 雲黒斎』