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なぜそこまで出来るのか?!何にそこまで突き動かされるのか?

※画像はAI生成画像と私の顔を組み合わせたものであり、オリジナルとなっていますので、無断転載・無断使用を固く禁じます。

「祈りを唱える人でなく祈りの人になりなさい。」私が中学生の時に出会ったマザー・テレサの言葉だ。

最近、この言葉を思い出す機会があり改めて祈りについて書きたくなった。

2014年1月1日に起きた能登半島地震の記事をいくつか見ていた時に、2011年3月11日の東日本大震災時のある記事に出会った。

東日本大震災の直後150キロの距離を2週間、お経を唱えながら歩いた僧侶の話だ。

素足に草鞋をはき歩き、周りは瓦礫だらけの地で雪降る中でも読経を行う。その姿は衝撃的だった。

初めてマザー・テレサの本を読んだときと同じくらいの衝撃を受けたかもしれない。

「こんなこと出来る人が現実に存在するんだ…」「何が彼女、彼らをここまで突き動かすのか?」

それは感動というよりはショックに近い心の震えで故に衝撃としか表現できない。並大抵の精神でできるものではない。

それが「天命」なのか。それを行うためにこの世に来ているのなら、それは説明がつく気もする。

天命には私天命と公天命があるらしい。字の通り、「私」は個人的にやりたいもので「公」は周りが望むもの。

私天命と公天命が一致する人もいれば、不一致な人もいる。公天命は能力開花や世界の広がり、活躍ができるとされている。

30代くらいまでは私天命を生き、40代前後で公天命を生きる流れが始まるらしいけれど、現代社会で30代まで自分のやりたいことをやれるだろうか?逆の人もいるのではないだろうか?少しばかり疑問を感じるけれど、今回はそこは深堀りしないでおこう。

順番やら流れやらは違えど、最終的に辿り着くところは「人のために何かを」っていう社会貢献の気持ちが出てくるのは、きっと間違いない気がする。

「ありがとう」は世界を優しくするから。やっぱりそれに尽きるんじゃないかなって。

この僧侶は当時38歳だった。祈りが自分のやりたいことだったのか?いてもたってもいられなかったのか…僧侶が師匠に相談にしに行くと、師匠は「何もできないことを学んできなさい。」と言ったという。

実際に祈る以外は何もできなかったと、謝罪の気持ちで読経を続けたと書いてあった。祈っていないで、ボランティアの一つでもしたらいいという声もあったという。

当事者ではないから、この祈りの答えや終着点がどこだったのか分からないけれど、私は祖父のことを思い出した。

祖父は浄土真宗でお葬式には他ならぬ拘りがあった。祖母のお葬式の時に、やたらとお経を長くしてくれとお願いしていたのをを覚えている。(本当に長すぎて辛かった・・笑)

お経は生きて残された人のためなのだなと私は感じた。それで少し何かをやってあげた気持ちになるのだ。気持ちを伝えているんだなと。

お墓や仏壇も然り。生き残った人のため。

だとしたら、僧侶の祈りは身内を亡くした者にとっては、癒しとなったのではないかと思う。心に届く何かはあったはずだ。

信仰心が深い話のように聞こえるかもしれないけれど、私は無宗教だ。祈りは能力だと思う。気持ちを伝える代弁者は簡単なようで簡単ではないはずだ。

誰しもが祈ったことがあるはず。それが自分の無力さからなのか希望に満ち溢れていたのか、不安だったからなのか、それぞれ違うだろうけれど。

自分のため、他人のために、愛する者のために祈る。祈りが届かずに、祈ることをやめた人も少なからずいるかもしれない。

祈りは時に謝罪であり、約束であり、感謝でもある。いずれにせよ行動が伴っていない祈りは届くはずがない。だから本気がどうかを見られている。


※画像はAI生成画像と私の顔を組み合わせたものであり、オリジナルとなっていますので、無断転載・無断使用を固く禁じます。

故に祈りのすぐそばに「天命」はあるかもしれない。自分の天命はなんだろうか?それはいつ分かるのだろうか?

私は20種類くらいの職種経験があるのだけど、ずっと私天命が見つけたくてあれもこれもと掛け持ちでやったいたような気がする。もしくは色々を経験すること事態が私の私天命だったのか。

振り返ってみると、すごいエネルギーだったなと思う。でもそのエネルギーはやっぱり長続きはしないものだった。若さゆえの経験だったのだ。

年齢を重ねてくると、自分に優しい持続性エネルギーが持てるものがベストだと思う。そんな意味を含め、私天命は見つけた気がする。

でも公天命となるとまだはっきりと答えは出ていない。ただ、なんとなくだけれど、それがはっきりする日も近いような気もする。
 
どうやって見つけていくのか?それは多分、何か大きなことを始めるとそういうことではなくて。今いる場所で、自分へと意識をどんどん向けることだと思う。

肩書きや物質的なことから判断できる自分ではなく、情報空間の中の自分へ。公だけれど、それは人の目を気にすることとは真逆にあって、自分を深く掘っていったところにある。

自分を突き動かす何かに出会えてますか?この続きはまた今度♪

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