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死ねない私を許してくれた映画と監督。ユリゴコロと熊澤尚人監督

「わたしってよっぽどの欠陥商品だ」

サークル内での度重なるセクハラに堪えきれなくなって、
日々自分で自分のことを消し去る方法を考えていた時期がある。

自分自身のことを傷つけると同時に、恨んでいた人間の心を傷つけたかったし、困らせたかった。

大学2年の夏のことだった。
自分は誰にも愛されないと思っていた。
将来誰のことも愛さないと思っていた。
そもそも今までの生きる意味だったはずの、
映像を作ることさえにも嫌気がさして、
本当に本当に何のために生きているのか分からなかった。


そんな時期に、私が日記に残した言葉は、

「わたしってよっぽどの欠陥商品だ。売ってないけど。どうしてこんな性格なんでしょう?」

毎日のように死にたいと言い、
線路を見ると飛び込みたくなり、
長い紐を見れば首に巻きつけたくなり、
鋭利なものを見れば手首に押し付けたくなる。

でもそれさえもできないほど、私は臆病で孤独だった。
それでも生きるための心の拠り所が見つけられなくて、とても、とても苦しい。

そんな時にたまたま出会ったのが、この映画だった


〇映画「ユリゴコロ」

劇場公開してから何週か経った日、
渋谷のTOEIで同じサークルの友人と映画「ユリゴコロ(2017)」を見に行った。

人間の死に生の意味を見出し、殺人を繰り返す美紗子が、心に闇を抱える人々に出会うことで自分を愛し、他人を愛せるようになっていくというストーリーである。

この映画を見たとき、私の心に大きくあいていた穴が満たされるような感覚になった。
美紗子が殺人を繰り返すのは、自らの心を締め付けている点で自傷行為のようにも見えた。
美紗子が出会うみつ子のリストカットの場面は、痛々しくもありながら美しく、感じるのは愛しさだ

出てくる人物全てが愛おしく抱きしめたくなる。

私の中に再び愛を感じた瞬間であった。
美紗子がみつ子や洋介たちを無自覚のうちに愛して、
自らが変わっていったように
私の中に生まれた愛によって、私も私のことを愛せるようになった気がする。

なによりもこの映画を見て、あたたかい何か見えないものに抱きしめられているような気がした。

死に向き合った暗い映画ではあるが、
ふと、死にたいという感情が消え、
前向きに自分の未来を考えるようにもなれた。

この映画と主人公美紗子との出会いは
私の中で死んでいた心を生き返らせる
人生の中で最も大きな出来事だった。


「ユリゴコロ(2017)」は「君に届け(2010)」「心が叫びたがってるんだ。(2017)」などの熊澤尚人監督の映画である。

「君に届け」は周りから避けられることに慣れ、下を向いていた爽子が、友人や好きな人との出会いによって、自らを愛し人を愛せるようになる物語だ。

「心が叫びたがってるんだ。」も同様に、トラウマを持つ順が、仲間や歌との出会いで、自らと向き合い愛を自覚していく物語である。

ほかの「ニライカナイからの手紙(2005)」「虹の女神 Rainbow Song(2006)」「雨の翼(2008)」「ジンクス!!!(2013)」も、
「ユリゴコロ」を見た後に見たが、
全部全部心が震えて、私ももこんな映画を作りたいと思った。


出会いによって、主人公が自分への愛と他人への愛を持つというテーマをずっと描いてきた熊澤尚人監督。

「ユリゴコロ」の監督が熊澤監督だとエンドロールで知り、納得だった。

これらの熊澤監督の映画との出会いによって、
私は自らを愛せるようになり、他人を愛せる兆しを感じることができたと思う。

〇熊澤尚人監督に会いたい

熊澤尚人監督には、なにか強い繋がりを感じた。

もともと熊澤監督は、私と同じように大学時代に自主映画を撮っていた。

そこからポニーキャニオンに入社し、その後岩井俊二監督がプロデュースした「虹の女神」の監督をした。
私は、映画の世界に行きたいと初めて思ったきっかけは、岩井俊二監督の「リリィ・シュシュのすべて(2001)」で、映画監督で一番好きなのは、岩井俊二監督だ。

私と同じで大学時代に自主映画を撮り、
岩井俊二監督と繋がりがある熊澤尚人監督
文章化してしまえば、そんなに運命を感じるほど強い繋がりがあるわけではない。

でも、直感的に熊澤尚人監督に会いたいと思った。

何よりも、あの「ユリゴコロ」を作った監督だ。
舞台挨拶とかエキストラとかで、熊澤監督の姿を直接見るだけではなく、
私のことを知ってほしいと思った。

〇熊澤尚人監督に会いにいく

「熊澤監督に会いたい!会いたい!会いたい!」

そう思っていたところにたまたま見つけたのが
熊澤尚人監督の演技のワークショップだった。
その時は高崎が会場だった。

東京の南西部に住んでいる私にとっては、
高崎までは約3時間、なかなかの遠さだった。
そもそも演技をすることは何よりも苦手だった。

だけど、会いたいと思っていたときに現れた突然のチャンス。
諦める選択肢は私の中にはなく、すぐに応募をした。


いよいよ、ワークショップ当日。

まず、自己紹介からはじまる。
「今井友梨です。私は演技未経験者です。
映画監督になりたくて、演出を学ぶために、今日はこのワークショップに来ました。
もともとは大学のサークルで自主映画を作っていましたが、
人間関係の問題で退部をしました。
映像を作る場がなくなっても、映像を作りたいと思いました。
それは、何よりも演技をしている人が好きで、演技に携わりたいと思うからでした。」


正直、この自己紹介が本心から思って言っていたことなのかは私自身も不明である。

でもいつの間にか、口から出ていた。
こんなこと、口に出したこともなかったけれど、
全く思っていないということではなくて、
寧ろ実際に言葉にすることで、自分の意志が見えたような気もする。

この自己紹介は、熊澤監督が大変興味を持ってくれた。
「人間関係ってどんな?きいていい?」

私は、ひとこと「セクハラです」と答えた。
それ以上は、熊澤監督がその場で私に深く問うことはなかったが、
ワークショップ後の打ち上げで、監督は私に話しかけてくださった。


私がサークルで受けた扱いや、今の映画業界のこと、
岩井俊二監督のこと、好きな映画のこと、
学生自主映画制作の苦労のこと、たくさんお話をさせていただいた。

その中で印象に残っているのは、
「映画監督になりたいなら、フリーランスでやっていくべきだ」という話だ。

私はその時、就職するという選択肢しか頭の中になかったし、
会社に入らずフリーランスなんて、私はやっていけないと思った。

その場では、私は「フリーランスになるという決断ができるほど勇気がない」と言った。


私は2か月後にまた、熊澤監督のワークショップを受けた。
そのときの打ち上げでもまた熊澤監督とお話しすることができた。

その日に言われたのは、「今就活するか・しないかで迷っていることは、何年後かにはもうちっぽけな悩みに思えるはずだ」ということ。

とりあえず、フリーランスでやってみなよ、と言われた。

熊澤監督のその言葉もあり、私はその後フリーランスでやっていくという決断をした。
エキストラに参加したり、実際に自主映画を作ったり、シネマプランナーズなどの求人募集サイトに載っていた求人に応募したりして、実際に映像の仕事を得て、フリーランスの映像マンとして学生のできる範囲内で努力をした。

もちろん、周りが就活をする中で、決意が揺らぎ、
マイナビやリクナビに登録したり、インターンに参加したりすることもあった。

ただ、やはり就活をするはずだった時間で、自分の好きな映像の仕事をして、スキルを上げることができるのは、それもそれで、とても有意義な時間だと思うようになり、制作に集中するした。

その甲斐もあり、いつのまにか映像でお金をいただけるようになった。
一度フリーランスのスクリプターとして仕事をした、制作会社で今インターン生として働いている。

学生には任せられるはずのないことに挑戦させてもらったり、
もし就活をしていたら経験できなかったであろう珍しい体験ばかりの日常である。

もしあのとき、熊澤監督に出会ってなければ、今私は何をしていたんだろう。
今のように自分が満足できるような仕事は、できていたのであろうか。

考えれば考えるたび怖くなる。

さらに言えば、もしあのとき「ユリゴコロ」を見ていなければ?
勿論、いまのインターンをしている会社と出会わなければ、、、などと考えることもあるが、最も大きな人生の分岐点は「ユリゴコロ」を見たことだと私は考える。

それほど、この映画は衝撃的で当時の私には刺さり、
熊澤監督との出会いは、再スタートした人生の開始点だった。


今も熊澤監督は、演技のワークショップを行っている。
最終的には、会社に入ることになったことを伝えるのが怖いという思いもあるし、
この2年で自分が成長できたのかを見透かされてしまうような気もして怖い。

また、せっかくのプロの現場で働くチャンスを家庭の事情で手放してしまったこともあり、
私の中で勝手に熊澤監督に罪悪感が生まれて、会いにいけずにいる。

今はまだ熊澤監督に会いに行けていないが、
大学を卒業するまでには必ず、直接あの時の出会いへの感謝を伝えに行きたいと思う。


#人生を変えた出会い #ユリゴコロ #エッセイ #日記

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