見出し画像

「やりたいことをやる」のは教育か。

こどもの意志を尊重する、という言葉について日々考える。

こどもがやりたいと思うことをやるのが一番大事、というのはよく言われている気がするが、その言葉の裏には「ただし、親がやっていいと思えるものに限る」というシールがうっすらと貼られている気がして、なんとも気持ち悪い。

うちの子どもたち二人に「やりたいことをやっていいよ」と言ったら、「イエーイ!」と言って、毎日家で好きなだけゲームをやって、YouTubeを見て、おやつを好きなだけ食べて、外には出ずにこたつでゴロゴロすると思う。それを見て「好きなことして充実してるなあ。なんて、いい人生なんだ」と思えばいいということなのだろうか。

「こどものやりたいことをやるのがよい」という言葉には、こどもが持つ純粋さ、無垢さのようなものに価値があるという考え方が含まれているように感じる。でも、僕にとって、こどもの純粋さや無垢さというのは、未熟さの一側面でしかない(洗練の先にある純粋や無垢とは区別したい)。未熟であることに一定のよさがあることは理解するが、未熟がいいとは思わない。

また、「やりたいことをやるのがよい」という考え方は、学校などで「やりたくないことを無理矢理やらされている」という理不尽な状況に対するアンチテーゼとして生まれたのではないかと推測する。仮にそうだとすると、「「やりたいことをやる」というのは果たして本当にアンチテーゼになっているか。しっくりこない。

一番最初に、やるべきこと(例えば数学)があるはずだ。そのやるべきことを前にしたときに、やりたいかやりたくないかという意志が事後的に生まれる。やるべきことは、言葉通りやらなきゃいけない(排水口に絡まった髪の毛を思い浮かべてほしい)。しかし、やりたくない。その状況が人生の大半を占める、と言っても過言ではない。

だから、教えないといけないのは、やりたいことをやることではなく、やりたくない「やるべきこと」への対処法だと思う。やりたくない「から」やらないのか、やりたくない「けど」やるのか。その選択、結果に伴う責任について。そして、当然だが「やりたいことをやる」ことは「やるべきことをやらなくていい」こととはまったく関係ない。やりたいこともやり、やるべきこともやればいいだけだ。

「やりたいことをやるのが大事」というメッセージは「やりたいことがやれないことが多い、理不尽で閉鎖的な環境」がないと意味がないようにも思う。(まだまだ十分ではないが)人類史上、すくなくとも日本史上、もっとも選択肢が多いだろう現代で「やりたいことをやるのが大事だ」というメッセージは、果たして教育的な意義を持つのだろうか。

本当にやらないといけないことは「やりたいことをやる」ことに意義を見出すのではなく、「やりたいことがやれないことが多い、理不尽で閉鎖的な環境」をなくすこと、つまり「やりたいことをやる」ことが当たり前過ぎて、それを教えることに意義がない状態なのではないだろうか。その上で、やるべきことについて学ぶ。何か学ぶことは自由になるために必要不可欠なのだから、やりたいかやりたくないかで選ぶべきではない、少なくともその選択を未熟な子どもの意志を尊重する、という形で実行すべきではないと思う。

こどもの権利を認める、意志を尊重する、自由を確保する、ということと、彼らにすべきことを求めることは矛盾なく実行できる、と信じている。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?