見出し画像

なりゆきまかせ

近くで見ていると、こどもは不自由な存在だなとつくづく思う。

ゲームに課金できない。嫌いな野菜を食べたらと言われ、行きたくないのに親の行きたいところに連れていかれる。欲しいものは手に入れられず、食べたいものは食べられず、行きたいところには行けない。僕は、こども時代に戻りたいと思ったことはない。

一方で、僕はこどもの中に自由のようなものを感じているのも事実だ。こどもは大人より自由な存在である、という気がする。なぜだろう。

自由とは何か、というのは決して高尚な問いではない。生きていく中で誰しもが出会う、ありふれた問いの一つに過ぎない。しかし、深遠である。

「自由とは選択肢が多いことである」というのが僕の答えだ。「選択するときに制約条件が少ないこと」と言い換えてもいい。

朝ごはんをパンにするかご飯にするかを気分によって変える。朝ごはんを食べずに寝る。朝ごはんを食べずに家を出て、スタバでカフェラテを飲むこと。こういった選択肢のうち、選べるものが多いほど自由と言える。「朝日を見ながらパンケーキを食べるために、葉山の別荘までヘリコプターで向かう」ということができる人に比べて、僕は不自由と言える(やりたいとは思わないが)。

しかし、これらの選択肢をほとんど選ぶことができない不自由なこどもの中に、僕は自由(のようなもの)を感じ取っている。これは何だ。僕の自由の定義で掬い取れない何かがある。何を取りこぼしているのか。それとも、こどもはただただ不自由な存在なのか。自由とは何か。ありふれた問いに、久しぶりに出会い直している春。ハロー、アゲイン。

正しい原因

去年、個人事業主を始めるときには開業届を書いた。

開業届の中に「屋号」を記入する欄があった。記入しなくても開業はできるのだが、せっかくの機会なので、屋号をつけることにした。

想いやビジョンのような、天気雨のときの虹のようにきれいだけど頼りないものではなく、もっと確かなもの、信じられるものにしよう、ということだけ決めて、感性に響く言葉を探す。

ネットの海をずいぶん遠くまで泳いでいたら、一つの詩に出会った。高村光太郎の「火星が出てゐる」である。

火星が出てゐる

要するにどうすればいいか、といふ問いは、
折角たどった思索の道を初にかへす。
要するにどうでもいいのか。
否、否、無限大に否。
待つがいい、さうして第一の力を以て、
そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
予約された結果を思ふのは卑しい。
正しい原因に生きる事、
それのみが浄い。
お前の心を更にゆすぶり返す為には、
もう一度頭を高くあげて、
この寝静まった暗い駒込台の真上に光る
あの大きな、まっかな星を見るがいい。

高村光太郎「火星が出てゐる」より冒頭部分を抜粋

個人事業主になって仕事があるかどうか不安に思っていた僕に「予約された結果を思ふのは卑しい」という言葉は、ざくっと突き刺さった。飛び散った血が顔にかかったよ。

「正しい原因に生きる事、それのみが浄い」という言葉は星だった。地球の気候や人間の営みの変化とは無縁の、その質量の確かさは、夜空に光る星そのものだ。

かくして、屋号は「火星が出てゐる」になった。同時に、自分がどんな仕事をすればいいかも決まった。「正しい原因」となるためにやれることをやるのだ。仕事の成果が生み出す社会的インパクトは、社会にとって重要ではあるが、僕にとっては必ずしも重要ではない。僕が正しい原因になれたかどうかが真に重要なのだ。

では、正しい原因につながる仕事とは何か。社会的インパクトのような「結果」でなく、ある行動が「正しい原因」であることを、僕はどうやったら知れるだろうか。

わからない。わからないが、現時点では「なりゆきにまかせてみる」ことが大事な気がしている。

原因があれば結果がある。もし僕がやったことが、正しい原因なのだとしたら、それは何らかの結果につながる。その結果が、また次の原因となって、次の結果につながっていく。原因と結果の連鎖が途切れずに続いていく、そこにつながるものが「正しい原因」なのではないかと思う。思うというよりは、そう感じる。

なりゆきにまかせるというのは、これまで僕が自由だと考えていた道の選び方とは相容れない。

「自由とは選択肢が多いことである」。制約条件の少ない状態で、可能な限り多くの選択肢を獲得し、その中から最適なものを意思決定によって選択する。

一方で、ここに、なりゆきにまかせることでしか「正しい原因」にはなれないのではないか、という直感がある。

さて、どう取り扱ったものか。

新しい自由の定義

かくして、話は、こどもの中にある自由につながる(戻る)。

選択肢が少ない、制約条件が多い、不自由なこどもの中にどうして僕は自由を見出すのか。

それは、こどもの「なりゆきまかせ」に生きている部分に自由を見出しているからではないだろうか、というのが僕の仮説だ。

社会を大きく変える。多くの人を助ける。助けるために必要な変化を早く実現する。できるだけインパクトが大きい仕事をすることに意味がある。そこには正しさがある。その正しさのために、何を選ぶか、どう選ぶか。多くの選択肢。強固な判断軸と明確なビジョン。強い意思決定。結果に対するコミットメント。必要なものをそろえて実行する。正しさを手に入れる。

しかし、これを自由と言えるのか。選択肢は多い状態に、制約条件は少ない状態になっているかというと、違う。求める結果が明確であればあるほど、選択肢は減り、制約条件は増えていく。自由から遠ざかっていく。「正しい結果」は自由から遠い、さみしい場所にある。

僕は「正しい結果」ではなく「正しい原因」でありたい。そのためには、自由の定義を書き換える必要がある。

自由とは、選択肢が多いことではない。

自由とは、なりゆきまかせにできることである。だから、選択肢が少なくとも、制約条件が大きくても、自由はなくならない。自由とは、行動の結果が小さくても、うまく出なくても、それが次の原因になっていくことを信じることだ。自分が見えること、望むことだけに閉じずに、行先の可能性を世界に開いていくことだ。どこかはわからないが、どこかにたどり着く道があり、自分が常にその起点であり続けることだ。

『火星が出ている』として仕事を始めて2度目の春。うまくいっているかはわからないが、新しい定義を手に入れて、僕の身体は軽くなった。もっともっと軽くなるだろう。自由は手の中にある。

おれは知らない、
人間が何をせねばならないかを。
おれは知らない、
人間が何を得ようとすべきかを。
おれは思ふ、
人間が天然の一片であり得る事を。
おれは感ずる、
人間が無に等しい故に大である事を。
ああ、おれは身ぶるひする、
無に等しい事のたのもしさよ。
無をさえ滅した
必然の瀰漫よ。

高村光太郎「火星が出てゐる」より一部抜粋


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?