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魂を洗練する

純度と洗練

バーテンダーがカクテルを作るのをぼんやり見ている。

グラスを手に取る、酒をメジャーカップに注ぐ、氷を選ぶ、シェーカーを振る、グラスに注ぐ。

誰かに見せるパフォーマンスではない。何かメッセージを発信しているわけでもない。カクテルを作るための無駄のない動作の連続。

洗練されている、と思う。

洗練とは何だろう。僕は何をもって洗練されていると感じているのだろう。クラフトジンのソーダ割を飲む。複雑で心地よい香りが鼻に抜けていく。おいしいというよりも心地よい。このジンも洗練されている。

無駄なものを含まないとき、そのものが本質的な要素のみで構成されているとき、僕らは純度が高いと言う。しかし、純度が高いからと言って洗練されているとは言わない。

洗練という言葉には時間的な奥行きが含まれている。最初から純度が高かったわけではない。時間や手間をかけて、もともと含まれていた無駄をそぎ落としていった結果、純度が高い状態に至ったもの。それを「洗練」されたものと呼ぶ。

洗練されているのか否かを見抜く人間の感度は恐ろしく高い。バイオリニストが舞台に立って楽器を構えただけで、その人が上手か下手かはわかる。なんとなくではなく、はっきりとわかる。音を出さなくても、楽器と奏者が築き上げてきた一体感のようなものが感じ取れる。

ビジネスのプレゼン資料や提案資料はもっと顕著だ。その資料が洗練されているかいないか、ぱっと見でかなり判断できる。

なぜかはわからないが、僕らは時間や手間、込められた感情を受け取ることができる。ただ純度が高いだけではない、その背後にある洗練を感じ取り、そこに美しさのようなもの感じる。そういう風にできている。


暮らしと濁り

「不登校児、不登園児と一緒に暮らしています。会社を辞めてフリーランスになって、日中はホームスクーリングをして、夜は仕事をしています。」という話をすると、たいていの場合「大変ですね」、「すごい決断ですね」、「自分にはできない」のどれか、または全てを言われる。

全くその通りだと思う。

今この暮らしが成立しているのは、我が家のメンバー全員の不断の努力と類まれなる運の良さによるところが大きい。誰にも勧めないし、絶対にやめた方がいい。

ということなのだが、この暮らしを子どものせいで選ぶことになった(選ばされてしまった)とは思っていない。子どもの決断(英断の方が適切だ)の結果、僕は今の生活を選ぶことになったのは事実だが、きっかけは何であれ、自身がやりたくて選んだ、人生にふさわしい選択をしたと自負している。後悔はしてないし、これからもしない(僕にとって、後悔は選択できる感情だ)。

むしろ、「兼業主夫としてホームスクーリングをやる」という全く想定外の、日本国内で非常にマイナーな生活様式をすることで、これまでの人生の延長線上では得られなかった学びを得られている実感もある。

「人間はどんなところでも学ぶことができる。知りたいという心さえあれば…」というある作品の台詞の重みを噛みしめる日々である。

自分でやりたいことをやって、それなりに充実感を感じている。そう思って生活していたのだが、さすが人生である。そうは問屋が卸さない。

暮らしているうちに、だんだんと自分の中に何ともいえないものが溜まっているように感じてきたのだ。曖昧で何とも言えないもの。存在感は希薄だが、何もないと言うには感触がありすぎる。何と表現するのが適切かはわからないが、ここではそれを「濁り」と呼ぼう。

  • 濁りは苛つきや不機嫌を呼び寄せる。

  • 物事を楽しむことを難しくさせる。

  • 世界を見るまなざしを暗いものにする。

  • 僕が本来持っている善性のようなものを曇らせる。

  • 世界や自分に対する違和感を生み出す。自分と世界の間にズレや溝があるように感じさせる。

「濁り」と疲労・ストレスは同義なのではと思うかもしれない。そうなのかもしれない。でも、僕は「濁り」が疲労やストレスを生み出しているように感じている。

なぜ「濁り」が生まれているのだろうか。

現状に対して何かわだかまりのようなものを感じている? そんなことはない(と思う)。

意に反することをしている? いや、自分が望んだことを実行している感覚はある。選択に関する納得感もある。

ただただ生活が大変だから? 以前にも大変なことはたくさんあったが「濁り」は感じたことがなかった。

この「濁り」はどこから来ているのだろうか。今自分に何が起きているのだろうか。

「意思」と「魂」

「やりたいことを見つけることが幸せにつながる」「やりたいことを思い切りやるのがいい人生だ」という価値観は、僕が子供だった30年前にはここまで社会を覆っていなかったと思う。少なくとも、僕の周りにこの価値観で何かを語る人はいなかった。

そのせいなのかどうかはわからないが、僕はこの価値観に全く共感しない。
「やりたいことはやればいいし、やりたくないことはやらなければいい」としか思わない。「やりたいこと」を探したりしないし、見つけたいとも思わない。そもそも「いい人生」や「幸せ」に興味がない。(ただ、やりたいことやる/やりたくないことをやらない生活はストレスが少ないのは事実だ。それができるに越したことはない。なので、自分が何をやりたい/やりたくないと感じているかについて自覚的であることは重要だとは思っている。)

先述のように、僕は今の暮らしを熟慮と納得の上で選択した。やりたいことをやる、最もストレスの少ない道を選んだ。にもかかわらず「濁り」が生じたことに疑問を感じていた。やりたいことをやっているのになぜこうなるのか。

現時点での僕の仮説は以下の通りである。

  1. 「やりたいこと」は起点ではなく終着点である

  2. 「やりたいこと」を生み出す起点があり、それは「意思」「魂」の2つである

  3. 意思によって生み出される「やりたいこと」と魂によって生み出される「やりたいこと」は性質が異なり、同じように扱うと「濁り」が生まれてしまう

ここで、「意思」と「魂」について少し整理しよう。

「意思」は能動的、積極的な心の作用として位置付ける。意思には自分がそれを選んだという感覚が付随する。数ある選択肢の中から、痩せたい、スタイルがよくなりたい、仕事ができるようになりたい、社会問題を解決したい、ということを選ぶ。それは意思の作用だ。

これに対し、「魂」は受動的、自発的な心の作用として位置付ける。自然とそう思う(思ってしまう)そうとしか思えないという感覚が付随する。部屋でゴロゴロしたい、のんびりしたいというもふわっとしたものから、あの人が好き(好きになってしまった!)という明確なものまでが、魂による作用だ。

一般的に、意思に自分らしさを見出している人が多いように思う。意思があること、意思によって生み出される「やりたいこと」を自分らしさの核として取り扱っているように見える。「やりたいことがない」ということが悩みになるのは、それが意思がないこと、アイデンティティの問題としてとらえられるからではないだろうか。

一方で、親がこどもの「やりたいこと」を伸ばしたいという話をしているときに思い描いているのは、魂由来の「やりたいこと」のような気がしている。プログラミングがすき(やりたい)、絵をかくのがすき(やりたい)、という気持ちは、何かを選択する意思からではなく、自然とそう思う魂から来ているように思う。そして、魂からきた自発的な「やりたいこと」だからこそ大事なのだ、と思っている大人は多いように見える。

僕は、自分らしさ、つまり自己の固有性というものは魂に起因しているのではないかと思っている。多くの選択肢の中から意思によって一つを選びとった、そこに自分らしさがあるわけではない。選択肢はたくさんあるが、自分がいいと思うのはこれしかないので(魂がそう思うので)これを選ぶしかない、という「選べなさ」に自分らしさがあるように思う。

干渉と濁り

話を戻そう。

意思から生みだされた「やりたいこと」と魂から生み出された「やりたいこと」は必ずしも一致しない)意思と魂は性質が全く異なるのだから、それは当然と言えば当然だ)。意思の強度が上がるほど、魂の純度が上がるほど、その不一致によって生まれる「濁り」は大きくなる

僕は、今の暮らしを熟慮と納得の上で選んだ。「やりたいこと」として選んだ。これは、意思によるものだ。しかし、僕の魂はどうだったのか。恐らく僕の魂の「やりたいこと」は違うものだったのだと思う。

だから、「やりたいこと」をやっているのに「やりたいこと」がやれていない感覚になる。満たされなかった魂が濁りとなって心の中に溜まっていく。

しかし、その「濁り」は意思によって生じるはずのないものにされてしまう。「やりたいことをやってるのだから問題はない」ということになる。論理的には。しかし、魂は論理に従うわけではない。だから納得しない。ただ叶わなかった事実が残る。濁りとして。

僕が濁りを感じているのは「本当にやりたいことをやれていないからだ」という見方もできる。しかし、僕はその見方は採用しない。本当の気持ちとそうでない気持ちがあるのではなく、意思と魂という異なるルーツをもつ「やりたいこと」が両方自分の中にある、それが干渉しているという方が身体感覚として近いからだ。

また、意思よりも魂を優先することが大事だ、と言いたいわけではない。意思も魂も僕の中にあるものなので、両方大事にするべきだと思う。

では、状況は変わらないではないか、濁りを抱えたままではないか、と思うだろう。全くその通りである。状況は全く変わらないし、濁りは今もここにある。そもそも、僕は「やりたいこと」をやっているのになぜ濁りが生じるのか?という問いに向き合いたかっただけで、それに対する一応の答えを手に入れることができて今は満足している。「濁り」をどうやって処理していくかは、また別のところで考えたい。

強度と純度、洗練

意思と魂について、もう一つだけ書きたいことがある。それは「強い意思」「純粋な魂」、それらの手に入れ方についてだ。

僕らは、強い意思を持ちたい、と思う。

そのためには、意思を強化するための何かが必要だ。原体験、ストーリー、トラブル、人生の流れを変えるような何か。その何かによって意思は強化される。意思を強化するためのアクションが増え、そのアクションをとったことが意思を強くする。意思と行動のフィードバックループが起きる。意思を起点にいくつもの「やりたいこと」が生み出されていく。「やりたいこと」をやることが成果となり、それも意思をさらに強化する。意思は強くなっていく。

僕らは、純粋な魂を持ちたい、と思う。

魂には理由も、根拠も、展望も存在しない。なぜそうなのかを説明できないし、説明する必要もない。「そう思うからそうなのだ」、ザッツ・オールである。魂が純粋であればあるほど「『やりたいこと』をやりたいのはやりたいと思うからだ」という非合理な説明を成立させることができる。論理では覆せない、zero to oneを手に入れることができる。

しかし、意思のようにフィードバックによって強度を上げるようなやり方で、魂の純度を上げる、つまり魂を洗練することはできない。魂は見えない。声も聞こえない。自分に問うてみても、何かが返ってくるわけではない。静かなところにある魂に直接触れることはできない。

だから、外から働きかけるしかない。それには、他者と関わること、他者の魂に触れることが必要だ。

自分の魂が他者の魂に触れたときに音が鳴る。本当に一瞬だけ、音が聴こえる。自分と他者にしか聴こえない音。その音が、自分の魂の状態を教えてくれる。イルカが超音波を使って位置を確認するように、その人と触れたとき鳴る音が自分の魂の輪郭をはっきりしたものにしてくれる。

世界には多くの他者がいる。合う人、合わない人、好きな人、どうでもいい人、嫌いな人。そういう多様な人と対話をして、そこで生まれるさまざまな音を聴く。いつまでも聴いていたいハーモニーもあれば、ただのノイズにしか聴こえないものもある。そうやって、いろいろな音が鳴っている場に身を置くことでしか、自分の魂をチューニングしていくことはできない。

他者と関わることを通じてしか、魂を洗練することはできない。

きれいな音、心地よい音だけを聴いていたいと思う。しかし、それは洗練からは遠い、他者のいない、孤独な道だ。


20代後半から30代前半にかけて、僕は意思が強い人に憧れてきたし、そうなろうとしてきたように思う。つまり、自分の中でフィードバックループを繰り返しながら意思を強化してきた、ということだ。強くなりたかったのだと思う。

今、39歳の僕は、魂の純度が高い人になりたいと思う(これは意思と魂の総意だ)。

他者との関わりを経て洗練された魂を持つ人は美しい。バーテンダーがカクテルを作るときの所作のように、美しさを追求していきたい。そのためには、他者と関わり合い、対話の中で他者と自分の魂が触れる瞬間を作り、きれいな音を奏で、その音に耳を澄ませるということをやっていかなければいけない。

「魂の洗練」というこの壮大なテーマに、10年くらいかけて取り組んでいこうと思う。それがどんな意味があるかはわからないが、これまで通り、意思と魂を信じるしかない。

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