おじいちゃんにはゆっくりと自殺してもらうことにした

 祖母たちには今まで盆と正月に会うばかりだったので、同居するようになってから今まで見えていなかった祖父母の老いや悪習も見えるようになってしまった。もちろん祖母宅の近隣への進学をきっかけに同居という選択をしたことで、短期間ながらも今まで全く共有してこなかった生活が交わったのはとても価値あることだったけれど。

 これまでの休暇につけても、祖父が酒好きであるのは明らかであったが、たまの孫の訪れに喜んで酒量が特に多いのだと思っていた。何日か食事を共にして、すぐにそれが祖父の日常なのだと分かった。夏は食欲が落ちてそばかビールかしかまともに口に運んでいなかったし、時には車の鍵を隠して飲酒運転でコンビニに酒を買いに行こうとする祖父を妨害しなければならなかった。もう自身の意思で酒量を決められる域を超えている。完全にアルコール中毒だった。
 祖母にも酒量を減らしてほしいという意思はもちろんあるようだから、専門の外来に行って断酒に踏み切ることを提案してみたけれど、祖父を一番近くで見守らなくてはならない祖母自身の判断を最優先してほしいと念を押した。この家の中で唯一インターネットで検索ということができる人間が私だけ(!)なのだから、一応医療機関が提供しているようなアルコール依存症に関する情報は一通り読んでみた。祖父には大きく分けて2つの選択肢があり、このまま好きなように酒を飲んで残りの人生を楽しんでもらうか、大きなストレスを伴っても治療を行うかだということも伝えた。私は生来の祖父の横暴な部分がより暴力的になって祖母に向くことを恐れていたので、前者を選んでくれればと密かに願っていた。

 結局彼女は、本人に治療の意思がないことを主な理由に今までの生活習慣に戻っていった。私ももうこの朴訥で世話好きなかわいい祖母の行為を、イネイブリング(アルコールやニコチン依存症患者に、周囲の人間が飲酒や喫煙をできる環境を提供してしまうこと。この場合だと祖母が祖父のイライラを鎮めようとしてビールを与えたりすること。)として見ることをやめた。祖母はこの選択において自身を責めなくていいと思った。仕方がないのだ。家父長制を引き摺ったような気質の祖父はやはり昭和の男で、自身の健康管理ができないことをなんとも思っていないし、ともすれば彼に罵声を浴びせられるかもしれない立場に置かれている祖母の行動を、すぐにこの場から逃げられる私がジャッジするのなんて傲慢そのものじゃないか。おじいちゃんには、大好きなお酒とたばこをこれからも続けて、ご機嫌でいてもらえばいい。後期高齢者の限られた時間を、渇きとストレスとの戦いで終わらせてしまうのが正解だなんて思えない。

 祖父の飲酒とか、祖母の散漫な注意力とか、曾祖母のおむつの悪臭とか、そういった容易には自分と相容れないものがここの日常の一部である。自分は健康な肉体と判断力に恵まれていることを痛感する。自分がいずれそうなっていく姿をこんなにそばで見ていても、なお、どうしてもう少し早く節制できなかったのだろう、どうして煮物に虫が入っていることに気が付けないのだろう、と苛立ってしまう自分を責めている。だんだんとその、そこはかとない諦観にも慣れてきた。異世代、異文化、異性、なんでもいいけれど、自分と違う属性を持つ人間との暮らしはこうした慣れを生じさせる。私は比較的緩やかな形でこれを経験出来て恵まれている。(例えば、嫁姑問題のような形で直面することもあるわけだし。) 現役世代には理解ができないと切り捨てられることの多い老人の行動が、彼らの受けてきた教育や認知能力や運動能力に由来しているという事実に寄り添おうとすることができる。私は恵まれている。

 祖父はだんだんと食欲が落ちている。今まで朝昼と食べ、晩は酒で腹を膨らませてしまって食べられずにいたのが、最近朝昼も食べられなくなった。そんな習慣を続けていれば明らかであるが、昨日の夜はドアを開けたまま立って小便をする祖父と出くわしてしまい、その太ももの細さにまだ少しぎょっとした。健康に食べるという生命の基本が揺るぎ、自身を酩酊させている状態をむしろ覚醒時だと認識しているようで、この健康への逆行は私にはゆっくりとした自殺にしか見えない。これも一つの生き方であるのに、私は傲慢なんだろうか。しかしもう、祖父にはそのように生きていってもらうことを決めたのだし、私はこの悲しみにも慣れていかないといけない。

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