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上京した夜、1人お寿司を

上京した日の夜だ。
アパートで荷ほどきを終えると、駅前のお寿司屋さんに一人で訪れた。

そのお寿司やさんは有名で、私が住むことを決めた駅を伝えると、ほとんどの友人が「あのお寿司屋さんがある駅ね」と言うほど。なんと神戸の両親まで「ああ、昔から有名なお寿司屋さんの場所ね」と知っているではないか。
その事もあり心に決めていたのだ。一人きりの引越し祝いを、あそこのお店でしようと。

親切なことにメニューも店先にあったので、躊躇なくお店に入り、予算に合わせて注文を決める。
泥のように疲れた体をカウンターに滑らせ、瓶ビールを頼む。
24の時だった。引っ越し作業で埃だらけになったのでシャワーを浴びてすっぴんのまま。ごくりと冷えたビールを飲むのは気持ちのいい事だった。

ざっとガラスケースをのぞき、生まれ育った街のお寿司屋さんを思い出す。ネタはやっぱり違うのだろうか。なんせ、お寿司屋さんの記憶だなんて親と一緒に行ったお店一店くらいだ。

安い青魚ばかり頼む。安いと言っても、これが馬鹿にできない旨さだった。
丸々と太り、艶々と脂を蓄えた鰯を見たときに、多分私は笑っていただろう。ピンと角を保ち、口の中で弾力を保ちながら崩れていく。鰯ってこんなに美味しかったんだ…。

まぐろスジと言うネタがあったのでこれも頼んでみることに。一貫50円。パリッとした海苔に包まれた軍艦で、角切りにされた鮪の端っことゼラチン質の皮が炙られている。さっぱりとさせるためだろうか、ポン酢が染み込んだもみじおろしがちろりと乗せてあった。なるほど、鮪の身の濃厚さ、皮のくにくにとした食感、そして海苔の磯の風味。それらを酸味が引き締める。50円を良いことにお代わりした。
最高の夜だ、と思った。私は東京で1人でお寿司を食べている。こんな美味しいお店がそばにあるんだもん。なんて幸先が良いのだろう。

「もうお腹いっぱいになっちゃったから、このお嬢さんに食べるか聞いてみて。」と横のおじさんが板さんに言っている。
すると板さんが少し困りながら「良かったらまだ何貫か召し上がりますか」と私に聞いてくるではないか。「あ、はい」と反射的に応えると、「もうお腹いっぱいになっちゃったからね、僕は帰るよ」とおじさんは帰ってしまった。

牛肉の炙り、雲丹、中トロ、大トロ、いくら、わかりやすく高級なネタが私の前に並んでいく。
これ、私が注文したことになっている?あれ?今どんな会話をしたんだっけ?疲れた体にビールが回っていたから、もう何が何だかわからなくなってしまった。メニューを確認したいけど、板さんこっち見てるよ、恥ずかしい。

目の前で光るお寿司を、もうやけっぱちで口に運ぶ。
あ、美味しい…。雲丹はやっぱり雲丹だ、粒のしっかりした輪郭はあるのにすぐにしゅんと溶けて無くなり口に残るのは甘い甘い余韻。目をつぶって雲丹の残骸を味わう。


よくわからない状況で私は雲丹を食べている。そもそもすっぴんでこんな高級なお寿司を食べるなんて。もっとちゃんとお化粧して、ちゃんとおしゃれして、食べたかったなあ。ごめんね、雲丹。と、脳内で一人で饒舌になりながらも、お寿司をつまむ手は止まらない。
ああトロすごい。鮪って、王様だ。ごめんね、トロよ。今度はちゃんとするから。

ぱんぱんに満腹になり、お茶をたくさん飲んで、なんとか正気を取り戻して一考する。
お財布には多分1万円札が入っていたはずだ。生活費のつもりだったけど下ろしておいて良かった。果たして足りるのだろうか。メニューを見たいけど、握りましょうかって言われちゃうかも…。

「ご馳走様でした。」と板さんに声をかけると「どうもありがとうございました…あ、もういただいているんで。」と笑顔。
「ええ!」と驚くと、先ほどの方がもう全てをお支払いしてくださったとのこと。
なんだかすっかり緊張がしゅるしゅると溶けていく。「私、今日、上京してきたんです。それで一人でここで引越しお祝いをしたくて…」 と話すと「そっかそっかそれはラッキーでしたねえ。頑張ってくださいね」と軽やかに見送られたのだった。

ああ、緊張した…おいしかったなあ。はあ、ありがたい…。
私、なんとかこの街で頑張れそうな気がする。頑張ろう。ちゃんとしよう。

本当は不安だった。
初めての1人暮らしは何にも出来ない自分に唖然とするばかりだった。
引っ越してきた日には、どうしても天井に手が届かず電球を付けれなかった。友達の恋人が急遽来てくれて、私のお布団を何枚も積み重ねた上に乗り、付けてくれたのだった。
一人暮らししよう。1人で大丈夫と思っていたけど、全然そうではなかった。 
毎日毎日、色んな人に助けてもらっていた。


それから1人でお寿司やさんに通うようになった。
青魚を食べ、まぐろすじを食べ、1貫だけ良いものを頼む。
あの不思議な夜のお寿司はとても美味しかった。
しかしまた、メニューとにらめっこして計算しながら食べるお寿司も格別だった。

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