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執着しなくなったら少し楽になった。

執着しないことは心のためになる。

気がする。俺は。

俺は執着がすきじゃない。みたい。

執着は苦しいし、悲しいときがある。
理想のイメージに執着しすぎると
苦しくなる。

こだわり過ぎたら
きっとどこまでも完璧主義になる性格。

見えてる理想や直感を
ずっと追い求めてしまう。

その分、それが達成されないとき
苦しいきもちになる。

新しいことをやり始めて
少し経ってから
さらに先の先を予想しすぎて
あ、これ無理だってなって
途中で挫折する。

そして、へこむ。


だから、執着することをやめた。

これじゃなきゃだめ
と思うことをやめた。

やめようと意識したわけではなくて
勝手にやめてた。たぶん。


そしたら、「執着しない」ってことが
自分の一部になってた。
自分の性格の一つになってた。

仕事、趣味、普段の生活全般で
執着をしていないことに気がついた。


たとえば、俺はいまインドに行きたい。
今というか、ずっとだけど。

いや、イギリスにも行きたいし、
本当に一番行きたいのはフィンランド。

今すぐ行きたい。

でも、借金だらけで金銭的に厳しい。
(お金の問題はどうにでもなると思ってる節はある。)

それに、コロナ。

だから、しばらくは行けない。

でも、落ち込まない、へこまない。

だったら、静岡にある大好きな
サウナに行く。

でも、この間免許取消になって
今、車の免許を持っていない。

それでも、落ち込まない。

執着してないから。

それがだめなら
近くの温泉に行く。

それもだめなら
家のお風呂をいつもより豪華にして入る。

音楽流したり、ろうそく灯したり、
何か良い匂いにしたり、本読んだり。

たぶん、俺にとって
どれに対しても優劣はなく
やりたいことなんだと思う。

いつも代わりがきく。

想いが強くない。

とか

薄情とか言われたりもする。


でも、どれも同じように強く
やりたいって想いはある。


今日だって、ブックオフにめちゃくちゃ行きたかった。だいすきだから。

アルバイトの面接ついでに
ブックオフに寄るつもりだった。

けど、そこに向かってる途中で
他の本屋さんを見つけた。

そこに長居してしまったせいで
ブックオフに寄る時間がなくなった。

でも、全然なんとも思わない。

本来の目的と違うことしたのに
そのことの方が素敵なことに思えた。

いつも、執着がない。

いつからだかはわからない。


フジロックに三日間行った時もそう
観たいアーティストがいて
念願の来日だったのに

別のステージでかっこいい音が鳴ってたから
そっちを見に行った。

なんなら、二日目なんか
観たいアーティストだらけで
綿密にまわる順番を計画していたのに

前日朝まで飲み明かしたせいで
寝坊して、夕方に起きた。

全て見逃した。

けど、落ち込まなかった。

民宿で友人と一緒に
観たかったアーティストの
ライブ映像をYouTubeで観て踊った。

そんで、顔洗ったり
歯磨いたりのんびり準備して
のんびり会場に向かった。


他の音楽仲間たちからしたら
ありえない
みたい。


オザケンがだいすきな友達は
オザケンのステージが
入場規制になって入れずに
落ち込んでいた。


執着があって
それで一喜一憂することは
人間らしいし
想いの強さを感じるし

素敵だなと思う。

それに、そういう人を羨ましいな
とも思う。


俺にはそれができない。

というか、窮屈さを感じて
いやになるから

勝手にしなくなったんだと思う。


執着はしない。

代わりに、こだわりはある。

コーンスープはコーンの粒が
入ってない方がすきだし

あんこはこしあんがすき。

ギターのピックは
ジャズピックか
ジムダンロップのおにぎり型のがすき。

サウナは、静岡のしきじがだいすきだし
銭湯は、高円寺の小杉湯がいちばんすき。

本はハードカバーの本より
文庫本がすき。


こだわりはもしかしたら
人より多いかもしれない。

こだわりはたくさんあっても
執着はない。

なんかややこしいけど。

こだわりがあっても
自分の理想通りじゃなくても
全然いい。

なんなら、
理想通りじゃなくて
喜ぶこともある。

コーンスープにコーンが入ってる時
ふつうに喜んで飲む。

まず、自分で作ったら
コーン無しにするから

普段と違う経験をしてることを
うれしく思う。
(すごい器の大きい人間ぽいけど、ただ単に好奇心旺盛なだけ。あとは、怠惰とか?まあいっか!とかそういう弱さもチラつくけど。)

そして、コーン自体の甘さを感じて
コーンスープって粒入ってた方が
おいしいじゃん!
ってなったりもする。


それくらい、自分の好きって曖昧。

自分のこだわりって曖昧。

執着もきっと曖昧なもの。

執着は固定観念と近しいものがある気がする。


もっとふんわりと
曖昧に、漂ってたいんだと思う。

決めつけたくないし。

って、今
iPhoneのメモ帳にバーっと書いてたら

適当に音楽を流してたイヤホンから
ビートルズの『レットイットビー』
が流れてきた。

偶然。

ジョンレノンからのお告げだ。


あんまり詳しくどういう意味かしらないけど。


レットイットビーが
なすがままに
って訳されてることは知ってる。

なすがままにって言われても
ちょっと意味かわからないけど。

たぶん、なるようになる
みたいな

美空ひばりの『川の流れのように』

みたいな、そういう感じだと思う。


こういう偶然ってほんとときめく。

ときめきがいちばんすき。


曖昧さや、行間、空白
漂う感じ

心の隙間、言葉の隙間

そういうものを愛していたい。


執着や固定観念は
その素敵な隙間を減らす気がする。

気がするだけで
根拠も何もないし
考える気もしないけれど。

たぶん、合ってる。

というか、自分で考えたことだから
合ってるも何もなくて
ただ、感じたこと。

それが全て。

(もう忘れてしまった、何かの本や、誰かの言葉かもしれないけどね。)


今日も漂うように生きたなあ。


レットイットビー。

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