心の奥底の自分

毎日特に変化のない日々を送っていても、時々心の奥底の深い部分を考えてしまう。

考えなければただ過ぎ去る日々で終わってしまうのにふと立ち止まって考えて眠れなくなってしまうこともある。

感染症により人との関わりを密にしないようにすることが当たり前になってきて、ただただ毎日のルーティンを繰り返す日々。
家族以外と関わるのは不謹慎に感じてしまうし色々と気を遣うのが面倒臭く感じて連絡を取ることも気が重くなってしまっている。
マスク必須の中、外を少し歩くだけでも息苦しいし辛くなる。

それでも子どもは私がいなければ何もできないし生きていけないので家事や育児は当たり前に行っている。

旦那は、マスクはつけているが以前と特に変わらず仕事に行く日々。歳をとると共に責任も増えてきっとやりがいと緊張感の中で過ごしているのだろう。

自分は子どもが生まれてからは専業主婦なので家庭内の中では責任とこどもたちがケガや事故にならないように緊張感を持って過ごしているが最近は手を抜いたり、とことん頑張ったり目には見えないかもしれないけれど家の中のことと育児はやっている。

子どもたちはまだまだできないことも沢山あるし自分がしなければと思い家のこともなんとも思わないでできるのだが、やっぱり旦那は家では疲れて何もできないのは分かるがそれぐらい片付けようよとか色々と不満が出てきてしまう。

以前は旦那のそのような部分を気軽にママ友と話していたけれど、最近はそんな風に話すこともすっかりなくなってしまい自分の中でもやっとしたまま心の奥底に溜まってしまっている。

細かなことが徐々に溜まっていくともう何が治して欲しいことなのかさえもわからなくなってしまい、お金ももらって自由に遣っている身分だから家のことや子どものことは当たり前に行うべきと結果自分の考えを変えた方が良いものだと思ってしまう。

私は当たり前のことをちゃんと言葉にして感謝しているかと自分に問いたとき、当たり前すぎて多分気づいていないことのことが多い気がする。
誰かに指摘されるか何かがきっかけでそうだったなと振り返ったりして気がつくことが多い気がする。

一緒に暮らしていると治して欲しいことの欲みたいなものが出てきたり、自分ばっかりと思ってしまったり不満も出てくるだろう。

それを消化したり、自分だけがやっているんじゃないんだと感じることにより心の奥底から満たされた日々になるんだと思う。

消化した方が良いと思いながらどんどん溜まってしまう自分。

いつから伝えることに勇気が必要になったのだろうとゾッとしている。
一番ゾッとしているのは言うことを諦めている自分がいること。

もうこの人に何を言っても自分の言葉は響かないし、時間の無駄と冷めている自分がいること。

そして旦那もきっと同じことを考えているから何も言わないとお互い分かっている気がする。

いつからだろう。
心のパーテーションができるようになったのは。
いやコロナ前からですわ。

パーテーションの先駆者でした。

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