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NPB公式戦開催球場 尾道西高校グラウンド(現・尾道商業高校グラウンド)

NPB公式戦を開催した球場は何度も言いますが、300か所近く存在します。



その中でも高校の校庭で行われた公式戦も存在します。

1946年富山県の高岡高専グラウンドで2試合、
1948年福井市立福井高校グラウンドで1試合、
1950年新潟県の柏崎高校グラウンドで1試合、
1950年に長崎商業高校のグラウンドで1試合、

そして、今回紹介する広島県にある尾道西高校グラウンドで、1950年~53年の間に3試合開催されました。




尾道西高校は、1888年に創立した公立尾道商業学校が前身になります。

広島県商業学校や、広島県立尾道商業学校などに名称を変え、

現在の場所に移転したのは1939年。


1949年に尾道西高校となり、1953年には広島県尾道商業高校と名称を変更し、1968年に現呼称の広島県立尾道商業高校に変更されます。



尾道西高校の名称は4年間しか使われていませんでしたが、この4年間の短い間にNPBが開催されたことになります。



1948年3月に撮影された航空写真です。

この1年後にNPB公式戦が開催されたことになります。




1950年5月21日
広島‐大洋戦が行われ、これが尾道市初のNPB公式戦開催でした。
(試合詳細はこちら 1950WC (2689web.com) )


フェンスがなく縄で外野観客席との境界が引かれており、下をくぐれば2塁打、上を超えれば本塁打というローカルルールで試合が開始されます。


専用球場ではないため、グラウンドは固く、凹凸もあり、外野後方には草が生い茂っていたというコンディション。



2回裏、広島の松川広爾が打った痛烈な打球はライト後方に転がります。
ボールは右中間に生い茂っていた草むらの中に入りこみ、大洋のセンター長持栄吉とライトの藤井勇がそのボールを探している間に打者の松川が一気にホームまで到達。
松川の3点ランニングホームランになるという珍事が起こります。

松川は投手ということもあって、プロ通算の本塁打数は1本。
この本塁打がプロ最初で最後の本塁打となりました。



尾道西高校の公式戦の珍事は、これだけでは終わりません。




1953年4月1日に開催された、広島ー大洋松竹(これより洋松と表記)の試合では伝説の一発が誕生します。
(試合詳細はこちら 1953CR (2689web.com) )



4回裏、広島の白石勝巳が打った打球は右中間へ。フェンスの代わりに張られていた縄スレスレに打球が飛びます。

外野にいた熱心なカープファンが、張られていた縄を押し下げ、ボールが縄の上を通り本塁打に。
当然洋松の監督小西得郎は抗議するも受け入れられず、本塁打が認められます。

観客が本塁打をアシストした、伝説の「縄ホームラン」の誕生でした。
(なお、広島は1‐2で敗れています、、、。)



この縄ホームランは、「はだしのゲン」でも知られる中沢啓二氏の「広島カープ物語」にも描かれている、非常に有名な逸話として語り草になっています。


しかしこの事件が原因で、高校の校庭での公式戦開催はNPBが禁止。
尾道西高校での公式戦を最後に、校庭でのNPB公式戦はなくってしまいます。




現在の尾道商業高校のグラウンドです。

きれいに整備されていますね。


春の選抜では1964年と1968年に準優勝の実績があります。

近年は甲子園からは離れていますが、春夏合わせて7回の出場経験があり、プロ野球選手も多く輩出しています。







もうひとつ。

今回紹介した尾道西高校のように、学校のグラウンドで公式戦を行ったのは全国5校で8試合あります。

それでは、
母校OBがNPB所属のプロ野球選手として母校のグラウンドで公式戦をプレーした選手は存在するのか、調べてみました。


高岡高専跡は、現在県立高岡高校になっています。

1.高岡工業専門学校 
公式戦2試合
1946年7月15日 変則ダブルヘッダー
グレートリング‐ゴールドスター
セネターズ‐阪神

1924年に創立した官立高岡高等商業学校を前身とする高岡高専は、1944年に名称を高岡高専としますが、1946年に廃止されます。
高岡高専からはプロ野球選手は輩出しておらず、当然高岡高専OBがプロ野球選手として高岡高専のグラウンドで公式戦をプレーした選手はいませんでした。



福井市立福井高校は、現在の福井商業高校です。

2.福井市立福井高校(現・県立福井商業高校)
公式戦1試合
1948年4月26日 大洋‐急映

1908年に福井市立商業学校として創立し、1948年に福井市立福井高校、数度の校名変更を経て、1958年に現呼称の福井県立福井商業高校に改称しています。
現・福井商業高校を含めると輩出されたプロ野球選手は、2022年時点で7名。
ただ、最初のドラフト指名は1994年の横山竜二であり、1948年の福井市立福井高校時代に同校OBのプロ野球所属の選手はいません。。
よって、福井市立福井高校OBが、母校でNPB公式戦をプレーした選手はいませんでした。


1900年創立の柏崎高校。


3.柏崎高校
公式戦1試合
1950年7月18日 巨人‐大洋

1900年に県立高田中学校柏崎分校として創立し、1948年に現呼称の県立柏崎高校になりました。
進学率の高い高校というのもあり、残念ながら現在までNPBに所属したプロ野球選手は輩出していません。
柏崎高校もOBが、NPBのプロ野球選手として校庭で公式戦をプレーをしていませんでした。


長崎商業グラウンド跡。現在は県立体育館。


4.長崎商業高校
公式戦1試合
1950年6月1日 大洋‐西日本

1885年長崎区立長崎商業として創立。1886年に県立化も、1925年に長崎市立商業学校となり、1948年に現呼称の市立長崎商業高校になります。
長崎商業からNPB所属選手となったのは、2022年現時点で9名います。
校庭で公式戦が行われた1950年時点での長崎商業OBのプロ野球選手は、1名いらっしゃいました。

内堀保氏です。
後のNPBである日本職業野球連盟が設立され、日本で初めてプロ野球チームの公式戦が行われた1936年に巨人に入団され、2度の兵役を挟み1951年まで現役を続けられました。
沢村栄治・スタルヒンらの絶頂期を支え続けたキャッチャーでした。
内堀氏は現役・引退後も巨人一筋でしたので、長崎商業校庭で行われた大洋‐西日本戦にはもちろん出場しておりませんでした。

余談ですが、内堀氏は巨人スカウト時代に落合博満氏を発掘しています。
巨人は1978年のドラフトで、落合氏を2位指名することが決まっていましたが、江川卓氏の空白の1日事件により巨人はドラフトをボイコット。
落合博満氏はロッテが3位で指名することになります。


1962年撮影。広島県尾道商業高校時代の写真です。


5.尾道西高校(現・県立尾道商業高校)
公式戦3試合
1950年5月21日 広島‐大洋
1952年7月23日 広島‐阪神
1953年4月1日 広島‐大洋松竹(以後、洋松と表記)

尾道西高校の変遷は前述したとおりです。
現・尾道商業高校OBを含めると、輩出したNPBプロ野球選手は2022年現時点で23名。
1950年~53年時点で現役選手だったのは8名いらっしゃいました。
この間上記の3試合を戦った広島、阪神、洋松に所属していた選手は6名。
期待ができます。



1.
野田誠二氏は1947年に一塁手として太陽に入団。
1952年に広島に移籍します。
広島では外野手や代打として51試合に出場しますが、同年引退されます。
1952年広島‐阪神戦には出場しておられませんでした。



2.
杉川喜久雄氏は1950年に投手として大映に入団。
1951年に1年のブランク期間を挟み、1952年に大洋でNPB復帰。
1956年の現役を退くまで大洋や洋松と名称を変更するチームに在籍しました。
1軍初出場は当時23歳だった1954年。
よって1953年の広島‐洋松戦には出場していませんでした。



3.
榊原盛毅氏は1952年に広島に投手として入団され、1956年に引退されます。
ルーキーイヤーから一軍登板がありますが、1952年の広島‐阪神戦には出場なし。
しかし!
プロ2年目の翌1953年の広島‐洋松の試合、1点ビハインドの9回に登板!
1イニングを見事3人で打ち取って、9回裏広島の攻撃に良い流れで引き渡しています。
残念ながらそのまま1‐2で広島は敗れましたが、母校尾道西高校のグラウンドで、プロ野球選手としてプレーすることができています。



4.
太田垣(備前)喜夫氏は1952年に広島に入団され、1962年まで現役生活を続けられました。
1957年に夫人の姓である「備前」姓に改姓しておられています。
2002年にスカウト業から引退され退団されるまで、半世紀以上広島カープ一筋でした。

1952年に高卒新人ながら開幕投手に抜擢され、見事完投勝利。
18歳5か月での勝利は現在も最年少勝利としてNPB記録として残り、高卒新人の開幕完投勝利もNPB史上太田垣氏しか成し遂げていない大記録です。

1952年母校のグラウンドで行われた広島‐阪神戦では先発投手として凱旋登板。(試合詳細はこちら 1952TC (2689web.com) )
8回の5失点が響き、2‐5で敗れますが9回を完投します。
翌年1953年の広島‐洋松戦にも先発登板。
6回0/3を1失点ながら、敗戦投手となってしまいました。
しかしながら、2年連続で母校尾道西高校校庭でプロ野球選手として先発登板。
OBが母校校庭で2年連続先発登板をするという、今後恐らく永遠に現れないであろう素晴らしい記録です。
太田垣氏改め、備前氏は通算115勝。これも尾道西・尾道商業高校出身者で現時点最多勝利数です。



5.
原田信吉氏は1953年に広島に入団され、外野手・一塁手・三塁手で活躍し、1960年に引退されました。
1953年の広島‐洋松では入団直後の4月1日ながら、代走として出場。
たった1か月前にこの地で卒業したばかりの18歳の原田氏が、代走として出場した際には、観戦していた母校の関係者や後輩たちは盛り上がったことでしょう。
その後1960年に故障により26歳で引退されますが、現役通算137本の安打を積み重ねられました。



6.
菊池博仁氏は1953年に広島に入団され、同年に引退されました。
1953年に一塁手として1試合に出場され引退されています。
1953年広島‐大洋松竹戦には出場しておられませんでした。





なんと、高校OBが母校の校庭でプロ野球選手としてプレーをしていた選手は3人もおられました。

その全選手が尾道西高校のOBでした。


今回はこのあたりで。


参考
NPB 球場情報 公式戦開催全球場 | 球場情報 | NPB.jp 日本野球機構
日本プロ野球記録 ウスコイ企画 日本プロ野球記録 (2689web.com)
地理院 地図 地理院地図 / GSI Maps|国土地理院
地図・空中写真閲覧サービス 地図検索表示画面 (gsi.go.jp)
中沢啓二 「広島カープ誕生物語」
国立高岡高専高等学校  富山高等専門学校 (nc-toyama.ac.jp)
福井県立福井商業高等学校 福井県立福井商業高等学校 | Fukui Commercial High School (fukusho-ch.ed.jp)
新潟県立柏崎高等学校 新潟県立柏崎高等学校 (nein.ed.jp)
長崎市立長崎商業高等学校 ホーム - 長崎市立長崎商業高等学校 (nagasaki-city.ed.jp)
広島県立尾道商業高校 広島県立尾道商業高等学校 - 広島県立尾道商業高等学校は,しっかりとした学力,専門的な知識・技能を身につけるとともに,豊かな人間性としっかりとした理解力を持ち,社会にりっぱに貢献できる人材の育成をめざします。 (hiroshima-c.ed.jp)

2022.8.29 筆


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