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【乃東枯】なつかれくさかるる『思い出のビーフストロガノフ』夏至/初候🍀


何の迷いもなく、夫の両親との同居を決めた私に、母は言った。
「アンタみたいな子に、同居なんて無理。我慢できるはずがない」
母が、そう言いたくなるのも、分かる。
9人の大家族で育った私。
母方の両親、マスオさんの父、叔母2人に叔父1人、そして私と弟。
大家族は楽しいもんだと呑気に信じこんでいた。


夫ヨッシーさんとは、初デートの時に次男坊だということを確認済み。
やったぁ〜♡と、すぐに母にも報告。
なのに、何故わざわざ同居せねばならないのか?
それにはワケがある。
義父からの提案で
「食費込み2人分で4万でどうだ?」と持ちかけれた。
何処かでアパートを借りることを思えば、超ラッキーだとばかり、提案を受け入れたヨッシーさんと私。


この提案、賢すぎる義父の作戦。
2年後には
「ワシラが4万出すから、ナツメやりくりしてみろ。出来るか?」
という案に変更される。
のん気なのに、負けん気だけは強い私、あっさりOKしてしまった。
そのバトンタッチ後の義父との思い出(バトル?)は山ほどあって書ききれない。
なので、今回は省略。

この時、父が45歳で母が42歳でだった。
この5年ほど前に家を建てたばかりだったから、娘を嫁がせるのは本当に大変だったことだろう。
その大変さは、息子たちの結婚を経験した今なら、私にも理解できる。


嫁入り道具のひとつ
輪島塗の重箱の掛袱紗


家に入らなければ、嫁入り道具もコンパクトで済んだかもしれないし、花嫁暖簾やら何やらカンやらも省略出来たかもしれない。
写真の掛袱紗は、ご近所さんに結婚のご挨拶に回る時、赤飯入の重箱に掛ける物である。
オマケにご近所回りは留袖姿。
何時代なんだか?


結婚2ヶ月前に仕事を辞めた私。
パートに出ていた母の代わりに
「夕飯作っとくね」
と言い、始めて作った料理が、ビーフストロガノフ。
何でいきなりビーフストロガノフ?
単に料理本を開いたら、メチャ美味しそうだったからだ。
全く料理が出来なかった私、料理本に頼るしかなかった。


さて、夕飯になり家族(この頃には叔父が結婚し、私たち親子4人だけ父の実家近くの新居に引越)で、食卓を囲む。
見た目はまぁまぁ。香りもまぁまぁ。
だけど美味しくない!
明らかに失敗だった。
母も弟も、ちょっとだけ食べて残した。
なのに、父だけは美味しい美味しいと言って完食してくれた。


父は決して洋食派ではない。
魚さえあれば良いし、刺し身や煮魚、それに煮物なんかがあればオッケーな人。
ビーフストロガノフが好きなワケがない。


父は穏やかで、大きな声を出したり、怒ったりした顔を私は見たことがない。
昨年父が亡くなって、母と思い出話をする機会が増えた。
「アンタ、お父さんに1回だけ叩かれたことあるよね」
覚えていないが、誰かに(祖父か祖母?)に憎たらしい言葉の数々を発していた私を、パシッ!
やっぱり、自分のためじゃないところが、父らしい。


結婚式の数日前から
「旅したいなぁ。なぁ、結婚式、絶対出んとだめか?」
「お父さん!逃げたら一生恨むよ」
そんな会話を何度か繰り返し、いよいよ当日、逃げずに諦めた父の前に手を付いて
「お世話になりました」
と言おうとした瞬間、さっと立ち上がって逃げた。
「そんな挨拶はいらん!」


ずっと忘れられない、父の思い出がもうひとつ。 


大正生まれの義父(ヨッシーさんの父上)からみると、私みたいなヤンチャな嫁は、すごく腹が立ったのだろう。
1度実家に電話されたことがある。
「娘に、どんな教育したんや!」
その後、義父から電話を代わった私に父が言った。
「ナツメ、我慢せぇや」
その一言だけだった。
叱るわけではなく、いつもの優しい父の声だった。


その後、どんなに辛くても実家には帰らないと決めた。
父を悲しませないために。


亡くなった後の、初めての父の日。
父の優しい声を思い出すと、自然と涙が溢れてきた。


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