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Thisコミュニケーション感想の名を借りた自分語り

ネタバレありです。

この作品は、「薄情な人間」に赦しを与えてくれていると思う。
デルウハ殿が選んだ結末と、それがもたらした結果は。

かなり薄情に生まれてしまった自覚があり、それをコンプレックスに思って生きてきた。どうにも他の人の語る愛が分からなかった。

とても生きづらい世の中である。世界では情こそが多数派であり、愛は正義である。薄情な性質の人間は「人間的に未熟」と断じられてしまう事も多い。
おれはオタク趣味であるが、現代のオタクは「関係性のオタク」が覇権を取っており、情や執着について語る者が支持される。
そこに上手く乗れない自分は、オタクとしてすら表通りを歩けないのではと、鬱屈とした思いがあった。

なんせ親兄弟を愛しいと思ったことがない。割合と恵まれていた家庭だったと思うのだが。妹に無償の愛を注ぐ弟を見ながら、どうしてそんなに可愛がるんだろうと不思議に思っていた。
今は歳を取ったが、親への感謝もなかなか湧いてきてくれない。理性ではわかる。大学を出してくれたことは多大な恩だ。だがギブアンドテイクで捉えてしまい、無償の愛というやつに覚えがない。
かわいそうなものを見ても、あまりかわいそうだと思わない。申し訳ないと思いなさい、と言われても思えない。
おそらく血縁者や友人を見捨てることが必要な局面がくれば、見捨てる選択ができてしまう人間だと思っている。

もちろんデルウハ殿のように徹底できてたわけじゃない。理より感情を優先したのも一度や二度ではない。しかしすぐに計算してしまう性分ではあった。

八歳の時に祖父が死んだ。その日、母の胸で泣いた。母は「こんなに悲しむなんてね」と慰めてくれた。彼女は鋭かった。まったく悲しくなどなかった。
ただ、今は人が死んだ状況らしいと聞き、これは、いわゆる泣くシチュエーションというやつだな、と思い、「であれば泣かなければ」と涙を流した。むしろ今より酷いかもしれない……。

本気で泣いたことはある。ただ、悲しみよりも怒りで泣いた。覚えているのは、自分のための怒りばかりだ。不公平、理不尽、敗北、それらがあるたびに泣いた。
シナリオの仕事をしているくせに、物語で泣いた覚えもそういえばない。喜劇の方が好きなので仕方ない部分もあるが……。

Thisコミュニケーションでは、たびたび、相手をおだてたり、欲しい言葉を言うことで絆を得る場面が描かれる。
情で生きてきた人は、それをニセモノの絆と言うだろう。世間の6割くらいは、ハントレスでいえば、にこ・いつかタイプの人間だと思う。
でもそんな絆も大きな利をもたらすし、意味がある。

おれは人を助けることがある。相談されれば真摯に応じるし、真剣に一緒に考える。手を貸してあげることもある。無償でもやる。
なぜなら、無償じゃない。人に良く思われるという快楽を得ることができる。また、相談事や課題には、自らの能力で問題を解くような面白みがある。
ただ、相手に心から幸せであってほしいとか、元気になってさえくれれば何でも構わないとか、そういう気持ちが芽生えてくれない……!
なんでこんな大人になってしまったのだろう。そんな迷いとある種の劣等感が常にあった。

しかしThisコミュニケーションを最後まで読んで、「それでもいいか」とちょっと救われたのだ。

アンドレア・デ=ルーハは、最後まで己を曲げずに合理性と打算を貫き通した。そこに一切の情や愛はなく、他者のための行動は一度たりとてなく、1日3食の個人的な満足にすべてを捧げ、微笑んで死んだ。
世間一般には絶対に褒められたものではなく、というか、いわゆる悪と言われるものだ。利己的であることは徹底的に批判される。

でも、世界を救った。

最後に挿入された語りで、それは他者に、世界に利をもたらしたもので、意味があったのだと明言された。
薄情な人間でも、利己的なまま世界を救えるのだと。

それが、たまたま薄情に育ってしまった人間にとっては、ささやかな救いになった。
作品としての感動とか、それ以外の部分で、ありがとうと、そう言いたい作品だった。

こんな俺でも、選んでくれるか?

選んでくれる人はいるのだ。

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