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僕と兄の、心の中の鬼


2月3日は節分だ。今日が2月13日であることはさておき、2月3日が節分であることに間違いはない。

節分と言えば豆まきだ。「鬼は外、福は内」という呪文を唱えながら、辺りに大豆をまいていく。なぜ大豆をまくのか、なぜ2月3日なのか、いつの時代からこの行事をやってるのか、そういった事情については、残念ながら僕は無知を貫いている。良く言えば邪念を払い心を無にして豆まきをしてきたからで、悪く言えば何も考えずてきとうに大豆をばらまいてきたからだ。

そんな不真面目な僕は招待されたことは無いが、世間には、鬼(の仮装をした人。もし夢を壊してしまったら申し訳ない)が出てくる本格的な節分パーティもあるらしい。参加者はただ大豆をまくのではなく、その鬼に向かって大豆を投げつけるのである。少々疑問なのだが、この場合も「豆まき」と呼んでいるのだろうか。もしかしたら実際の動作に即して「豆ぶつけ」とか「豆投げつけ」みたいな呼び方をしているかもしれない。

さて本題に入ろう。

時を遡って去年の8月、実家のタンスを整理していたら幼いころの工作品がごろごろと出てきた。多くは兄(僕には6歳上の兄がいる)の小学生のころの作品だ。紙粘土でできた野球選手に、オレンジ色のフェルトで作られたカブトムシ。金箔に包んで言えば、兄がデフォルメの天才であったことがうかがい知れる傑作ばかりである。

その中に、鬼の面があった。これである。

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左が兄ので、右が僕のだ。いつ作ったものなのかはよくわからない。見た目から判断して、どちらもたぶん、幼稚園か小学校低学年の頃にそれぞれ作ったものなのだろう。

それにしても、えらい違いである。

兄の鬼は恐ろしい。今にも襲い掛かってきそうなほどの破壊性と怒りとエネルギーに満ちている。圧倒的に凶暴で手が付けられない。鬼としてのわずかな知性すら完全に失った破壊衝動の塊、という感じだ。人どころか鬼まで喰らい尽くしかねない。そのまま暴走して制御不能となった野生の血に肉体が耐え切れず、破滅してしまいそうな勢いである。

対する僕の鬼は、見るからに軟弱だ。角は曲がり、目尻は下がり、口は雑に書いた「心」の2画目みたいに緩んでいる。笑っているのだ。強き鬼としてのプライドは全て捨てたのだろう。ただその代り、ちょっとかわいい。鬼のくせに、お茶とかお菓子とか出してくれそうだ。落ち込んでいるときに、優しく寄り添ってくれそうな勢いである。「そんな焦らんでも、まあゆっくりでいいじゃない。きつい時は休んでいいんよ」である。

でも実は、僕の鬼はただ優しいだけの鬼ではなかった。このお面(そもそもこれをお面と呼べるかは微妙だが)は、裏にもう一つの顔を持っていたのだ。それも怒りの顔である。

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目は鋭角三角形になってつり上がり、開いた口からは逆立った牙が飛び出している。攻撃の表情、威嚇の表情、復讐に燃える表情、ポケモン対戦でかみなりが2連続で外れてめちゃくちゃイライラしている表情など、いろいろな解釈が可能だが、いずれにしてもそこには怒りがある。相手を傷つけようとする意志だ。

そう、僕の鬼の面は、表と裏で全く違う表情を見せる。2つの顔を持っているのだ。優しさと怒りという、相反する2つの顔を。

そんな二面性を抱えた僕の鬼と、圧倒的な破壊性を放つ兄の鬼。同じ親から生まれた兄弟なのに、まるで違う感性である。

鬼の面作りは、作り手が心にどのような鬼を飼っているのかが自然と形になって表れてくる。作り手の心に荒々しい鬼がいるなら荒々しいお面になるし、暗い鬼がいるなら暗いお面になる。科学だとか論理だとかではなく、不思議とそうなるものなのだ。

兄と僕とは全く違う鬼を心に住まわせていたのだろう。あるいはその鬼は今もいるかもしれない。心の中の鬼を自覚するのは難しい。

でもこのお面から推察するに、少なくとも幼いころの僕の心の中には、二面性(あるいは多面性)をもった鬼がいたのだろう。仮に鬼が、自分の心の弱さや醜さや苦悩の象徴なのだとしたら、幼いころの僕は、もしかしたら自らのペルソナに対して無意識的な抑圧を抱えていて、自己表現が不安定になっていたのかもしれない。自分の感情をどう扱うべきか、本当の自分とは何か、他者とどうかかわるべきか。人ならば誰もが――大人であれ子供であれ、自覚的であれ無自覚的であれ――向き合うことになるこの問題に、僕は少し強く反応していたのかもしれない。今となっては全てが推測に過ぎないが、でもきっとそんな事情が、僕の心に二面性をもった鬼を生んだのだ。

兄の鬼が表しているのはたぶん、本当はめちゃくちゃ性欲が強いとか、そんなことだろう。

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