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親知らずを抜く、顔がはれる

左下の奥歯の辺りがズキズキと痛み出した。引きつった顔で近所の歯医者(初めて行く所)に駆け込んだら、親知らずが良くないと言われた。それは僕が3年以上放置していたやつだが、親知らずだけに、知らず知らずのうちに隣の歯と歯茎を圧迫して炎症を起こしていたらしい。

先生からは「私は抜いたほうがいいと思いますが、どうしますか」と聞かれたので「じゃあバシッと抜いちゃってください、抜歯だけに」と、次回の予約をして帰った。

そして抜歯の日が来た。と言っても8月4日の「抜歯8 4の日」ではないから誤解せぬように(ちなみにそんな記念日は無い)。

親知らずを抜くなんてただただ面倒くさいと思っていたが、いざ椅子に寝かせられるとやはり怖くなってくる。僕の親知らずは斜めに生えていて抜くのが難しいと聞いているからなおさらだ。そういう不安要素を告げるなら「だけどあなたの親知らずって、とってもセクシーね」くらいのフォローは欲しいが、歯医者はそういう場所ではない。

そうこうしている内に歯の状態のチェックが終わった。歯科衛生士さんはどこかへ行き、僕は「待ち時間にもデンタルケアの宣伝をしてやろう」という意志が強く表れた貼り紙だらけの壁を眺めて待っていると、抜歯を担当する男性の先生がやってきた。

先日診察をしてくれた女性の先生ではなかったのが少し意外だったが、この先生も幸い経験豊富そうな方だ。話声の落ち着きと余裕から察するに、これまで相当な数の親知らずを抜いてきたに違いない。恐らく好きな童話を聞かれたら迷わず「おおきなかぶです」と答えるタイプの歯科医だ。つまり信頼できる。

手術は麻酔から始まった。注射の痛みを軽減するために最初は麻酔を歯茎に塗るらしい。しかし肝心の注射は、鉛筆を突き刺しているのかと思うほど痛かった。偽薬プラシーボ効果狙いでクリニカか何かを塗っていたんじゃないかと疑いたくもなって来るが、真偽のほどは分からない。

とはいえ注射の方は本当にすぐ効いてきて、たちまち親知らず周辺の感覚が無くなった。患部を触られても全く痛みが無いどころか、もはや本当に触られているのかすらわからない。これには僕も感動だ。

麻酔を片付けると、先生は親知らずを二つに分割して片方ずつ引き抜くと言い出した。そのままでは隣の歯に引っかかって抜けないからだ。歯を切るなんて聞くだけで痛々しいから正直やめて欲しいが、僕は素人なので余計な口は出さない。口は出さずに歯を出すのが、一流の患者である。

いよいよ先生が「メス」と言った(羨ましい)。患部を切り始める。ときどき水を吹きかけたり、血を吸い取るための綿を詰めたりする。ドリルで歯を削り、親知らずフィニッシャー(非公式)で引き抜く。こちらからは何も見えないので半分は僕の想像だが、大方そういう感じで進んだ。

しかし親知らずはそう簡単には抜けない。「なかなか頑固だねえ」と先生もため息をつく。頑固な親知らずで申し訳ない。余談だが、「頑固な親知らず」というとなんか強情な不良青年みたいな雰囲気がある。

格闘はなおも続いた。僕が先生だったら「残念ながらあなたの親知らずは選ばれし勇者しか抜くことはできないようです」とか言って誤魔化したくなるくらいの時間は経っているが、それでも先生は集中を切らさないから大したものである。実に粘り強い。

そして、寝ているだけの僕もさすがに疲れてきた頃、ついに「抜けた~!」と先生が安堵の声をもらした。ようやく終わったとお互い一安心である。

傷を縫ってもらった後、起き上がって見てみると、トレイの上には2つに割れた真っ赤な歯があった。これまでの苦労の割に感慨は少なく、ただ意外と小さい歯だなと思った。時計を見ると、開始から1時間以上が経っていた。

先生は「いやあなかなか大変でした。もしかしたら後で顔が腫れるかもしれません」とひとことふたこと言い残し、すぐに次の患者さんの元へと行ってしまった。さすがはプロである。その時は直接お礼を言えなかったからここで言います。ありがとうございました。

ところで、小学生の頃は抜いた歯をプレゼントされた記憶があるのだが、今回は貰えなかった。自分の目玉を喰らった魏の夏侯惇かこうとんみたいに僕も「父の精、母の血、棄つるべからざるなり」と叫んで歯を喰らう予定だったのだが、無いなら仕方がない。

僕は衛生士さんから術後の過ごし方について説明を受けた後、お礼を言って治療室を出た。抜歯代は思ったよりも安く、お歳暮に送るのにちょうどいいくらいだった。僕は抜"糸"の予約をして歯医者を出た。

翌朝、鏡にはいつも通りの顔が映った。パンパンに膨らんだ頬も見てみたかったので少しだけがっかりしたが、やはり何も無いのが一番なのだろう。

麻酔の痺れもすっかりとれた。抜いた痕はまだ痛んだが、薬を飲めばすぐに良くなった。親知らずを抜いて、心なしか口まわりが軽くなったように感じる。何をするにも気が楽だ。

もしかしたら先生は「顔が晴れるかも」と言ったのかもしれない。

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