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怒りの粘土

大人になって難しくなったと1番感じることは、
「自分のために怒ること」だと思う。

子供の時はもっと簡単だった。
私が勝手に秘密基地にしていた理科実験教室に知らずにやってきた友達が私の悪口を話し始めた時は、2人が一通り話し終わって一息つくタイミングで出ていって気まずい思いをさせたり、
後日、ほぼほぼ話したことの無い男の子数人が理科室の前で待ち構えて足を引っ掛けてきた時はその足を全部踏んで歩いたりして楽しんでいた。
だってわかりやすいんですもの。

私は自分に危害を加える人間が「計算通り。」とにやにや喜ぶのが心底気に食わない性分らしい。
だから、それを逆手に取ってこっちがにやにやする結果に落ち着けるのが好きだ。
誰もいないと思っていた理科室の分厚い遮光カーテンの裏から、私が出てきた時の2人の気持ちを考えると、「内緒話失敗しちゃったのね。お気の毒さま」と自分がされたこととの釣り合いが取れるような気がするのだ。

その代わり、私は自分から他者に危害を加えることは絶対にしない。
と言うより、自分が嫌いだと思う人間にそんな労力をかけてやるのすら嫌だ。
その分、自身と相手の間に起こったことが事故なのか、はたまた故意なのかのジャッジは可能な限り慎重にしている。
誰だって通りすがりに肩ぶつけただけで噛みつかれるのは嫌だろう。
そんな番犬ガオガオみたいな人間に、私はなりたくない。

音楽を再開して人間関係が広がっていくと同時に、大なり小なり不愉快な思いをすることが増えた。
それ自体はとても自然なことで、むしろ凄く人間的な体験なので、5年近く安定した人間関係の中にいた私にとって良いリハビリになっていると思う。
それに、大体の不愉快は次にまた会った時には解消出来てるものなのだ。
本気で怒ってることでない限りは。

さて。それでは「自分のために怒ることは難しい。」と言う話に戻ろう。
大人になると視界が広くなる。
自分だけでなく他者もまた1人の人間だから、その行動の元になる考えがあるのだろうという視点を持つようになる。
自分も相手もお互い様なんだから私だけ怒るのはおかしいと思ってしまう。
そういうもんでしょう?大人って。
逆に子供の時分は自己と他者しか存在しない世界で、やられたらやり返せばいいシンプルな世界だった。

要は、自分の視界で見えてるものに加えて他者から見えてるものまで加えて大きく捉えすぎて、肝心な「自分の気持ち」を素直に受け取れなくなってしまうということだ。


これを拗らせにこじらせた私は、「今、自分が持っているこの怒りは正当なものなのか?」という意味のわからない疑問まで持つようになってしまった。
正当もなにも怒りは怒りなのに!
怒るっていう感情の発生までコントロール出来るのであれば世の中に争いなんか1つも起こらないか、むしろ大乱闘の世の中になるだろう。
だって怒った方が得なんだもん。
「競走で勝った者が負けた者に対して自由に怒りを行使する権利を持ち、負けた者は勝った者に対する怒りを制限する義務を負う世界。」みたいな。

なんか物語が始まりそうだからこれはこの辺にしておこう。
つまるところ私は「アンガーマネジメント履き違え野郎」だったのである。
この文章を書く瞬間まで何が違ってこんなにしんどいのかちゃんと分かっていなかった。
「相手にも事情があるだろうに、怒りという感情が発生する自分」が悪なのではなくて、「怒り」を適切な形で送り出せなかった時に初めてその怒りは「悪」になるのだ。

ただ、大人になるとこれがとても難しい。
自分の中の好きな人間と嫌いな人間がコミュニティの中で密接して入り交じることが大半だ。
怒りをぶつけたくない人間にまでぶつけてしまうのは本末転倒だろう。
だから、ちゃんと発する怒りの形をデザインしないといけない。
これが本当に難しくて気を揉むのだ。

だから私は忘れないようにしたい。
誰かが自分に「怒り」を渡してきた時は、その人の中で散々揉んで、勇気を出して渡してきたものなのだということを。
そして私も、自分の中で湧いた怒りをちゃんと認めて渡せるように。
そういう人に、私はなりたい。

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