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「 日本は強力なライバルになる…。」 by ペリー実は、 日本は、 「老舗企業大国」で、 なんと・・・ 1000年以上 続く企業も 少なくない。 🐧💦(11月14日まで公開のビデオも見てね🎶)

中国・朝鮮・アジア諸国を、黒船で威圧し屈服させてきたペリーは、
「日本人も我が軍艦に恐れをなし速やかに屈服するだろう」と
自信満々で浦賀に来航しますが、実はペリー来航については、
幕府は、事前にオランダによって知らされていたそうです。
教科書でペリー来航を、
「突然現れた黒船に江戸中が驚き、幕府側も慌てて対応に追われた」
…と習ったと思いますが、違いました〜。
更に、オランダは幕府に、
「そろそろ軍艦率いてアメリカが来るから、今のうち開国しといたら?」
…と、ご親切に?開国勧告まで出していたそうですから〜
学校の教科書で習った事とは…随分と違うようですね。
なぜ?日本では歴史の事実・真実を、そのまま教えないのでしょうかね?  🐧💦そして下記の記事が気になります。老舗企業は大丈夫なのでしょうか?

・菅政権「給付金」打ち切りの非情。老舗企業を待ち受ける倒産地獄


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「 日本は強力なライバルになる…。」by ペリー
https://in.powergame.jp/isknm2_2010_gene_vsl?cap=merumaga20201101

伊勢雅臣の国際派日本人養成講座 LIVE
世界に誇る「和の国」の経営
商人道が紡ぐ経営史 編

江戸時代といえば「鎖国」というイメージを
持つかもしれませんが、、
では、資源の少ない日本は外国との窓口を閉ざして
どのように自給社会を作ったのか?...

教科書が教えない高度社会:
江戸の真実について、こちらのビデオで紹介しています。我が国は世界でも群を抜く、老舗企業大国です。ヨーロッパには設立200年以上の会社のみが入会を許されている「エノキアン協会」というものがあります。この協会の最古のメンバーは、イタリアの金細工メーカーなのですが、、

日本には、これよりも古い会社が100社近くもあります。中には、創業1400年以上の建築会社、創業1300年になろうかという北陸の旅館、1200年以上の京都の和菓子屋など、千年以上続く企業も少なくないのです。この企業の長続きにも「日本的経営の秘密」が深く関係していました。

老舗企業の実例を取り上げたり、どのような経緯で日本が成長してきたのか。江戸時代から遡り、日本的経営発展の歴史を辿っていきたいと思います。


1.長寿企業の言い伝え...数百年続く永続的繁栄の秘訣
・「老舗企業大国:日本が示す100年続く経営法」国内になんと10万社!?他国ではあり得ない伝統継承の心
・「ハイテク技術と相性抜群:神道の世界観」新時代を支える守り神...成功企業が祀る“ムスヒ”の正体


2.まごころ経営...三方良し経営の根っこ
・「江戸時代のドラッカー」名経営者もこぞって学ぶ...魂の商人が説いた“商いの心得”
・「渋沢栄一も憧れた経営界の逸材:二宮金次郎」600もの村を復興...江戸の隠れた財政再建のプロ


3.花のお江戸の市場経済...高度な自由市場経済を築いた先人からの学び
・「資本主義は江戸で生まれた!?」世界最速で百万都市へ...日本人に潜む経済大国のDNA
・「“日本が工業大国になる日は近い” by ペリー」1つの箱が黒船艦隊を驚かせたワケ

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以下は、現代の貨幣経済で用いられる仕組みや制度ですが...

・ケインズ主義
・変動相場制
・シンジケート融資

実は、これらは全て「江戸時代」から存在していたのです...

国柄探訪: 花のお江戸の市場経済  From:伊勢雅臣


■1.日本人のDNAに組み込まれた、市場経済システム■

アメリカがまだ植民地であった時代から、
わが国には固有の先進的な
市場経済システムが存在し、

世界に類を見ない百万都市
江戸を成立させていた・・・

日本人のDNAには過去400年以上
にわたる市場経済システムの経験が、
しっかりと組み込まれている・・・

鈴木浩三氏の
「資本主義は江戸で生まれた」[1]は、
我々の祖先が、江戸時代にいかに高度な
市場経済システムを作り上げ、

その上でたくましい経済活動を
展開していたかを、活写している。

今回は、この本を頼りに、
我々自身に潜むDNAを思い出してみよう。
そこに日本経済の再生のための
重要なヒントが見つかるだろう。


■2.天下普請のケインズ政策■

天正18(1590)年、三河や駿河を
本拠地としていた徳川家康は、
秀吉の命令で関東に移り、江戸に居を構えた。

当時の江戸は、海岸沿いは葦原ばかり、
東は荒涼とした武蔵野に続く
さびしい土地だった。

家康は関ヶ原の戦いで天下をとると、
全国の大名に命じて、江戸城の城郭築造工事、
江戸市街地や水路網建設に当たらせた。

このように天下人が諸大名に命じて
土木・建設工事をさせるのを
「天下普請」と言う。

これは戦時の軍役と同じ扱いで、
必要な資金・人員のいっさいを
大名の石高に応じて供出させ、
工事・役務を行わせるものだった。

数年に一度命ぜられる天下普請は、
大名達に巨額の財政支出を強いた。

それは幕府から見れば、敵対する可能性のある
諸大名の経済力をあらかじめ削いでおく
という防衛的な目的があったが、

同時に、軍備にあてられるかもしれない
経済力を、平和な「公共工事」に向ける
という意味もあった。

また天下普請の間は大名は
多くの家臣ととも江戸に滞在した。
そのための大名屋敷、武家屋敷群が
建設されていった。

これらの建設工事が資材や労働力への
巨大な需要を生みだし、さらに
膨大な工事関係者の生活を支えるための
食品、日用品、娯楽などの消費需要が生まれる。

江戸時代初期の70年間、このような
公共工事が集中的に江戸で行われた結果、
需要が需要を生み出す形で、
江戸は高度成長を続けた。

これは戦後の高度成長と同様に、
公共投資を呼び水にして、需要が需要を生み出す
ケインズ政策であった。


■3.参勤交代で盛り上がる消費需要■

寛永12(1635)年に、参勤交代制度が始まった。
大名達は一年を江戸、一年を国もとで過ごす。

これも軍役と同様に、禄高と格式に応じた
供揃いを義務づけられた。

供揃いとは、そのまま戦闘に移れる
武装した行軍行列のことで、
飲料水と薪以外は、武器・弾薬・食糧を
すべて持ち歩かねばならなかった。

参勤交代を含めた江戸在府に必要な経費は、
大名の実収入の5,6割を占め、
大きな負担となった。

大名達は国もとの米を売り払って、貨幣を得て、
それで江戸屋敷の生活費や諸経費を支払った。

殿様に随行して地方からやってくる
大勢の家臣団も、江戸での消費需要を
盛り上げ、町人層を潤わせた。

江戸屋敷での最大の支出は、
幕府や他の大名との交際費だった。

江戸屋敷に常駐した「留守居役」は、
天下普請の計画をなるべく早く掴み、

思わぬ案件が自藩に廻ってこないように
幕府の役人に根回ししたり、
あるいは他藩と「談合」したりした。

そのために吉原や高級料亭での接待や、
書画・骨董などの贈答がさかんに行われた。
こうした接待・贈答需要が、
料理・服飾・工芸などの産業を発展させた。

江戸時代後半には、
葛飾北斎や安藤広重などの浮世絵師が活躍し、
「名所江戸百景」「東海道五十三次」などが
盛んに出版された。

これらは参勤交代で江戸に集まった武士たちが
国元に持ち帰る土産であり、
また道中のガイドブックでもあった。

さらに江戸に全国から武士が集まることで、
諸国の情報が集まり、
また江戸の最新流行ファッションや、
長唄などの新曲が地方に伝わった。


■4.民間による商業航路の発達■

天下普請のための石材など資材の運搬、
さらに動員した家来や土木作業員の
食糧供給のために水運が発達した。

江戸城の石垣築造では、
西国大名31家が3千艘の運搬船建造と、
それによる伊豆半島からの
石材輸送を命ぜられた。

また東北の大名は、
太平洋岸を南下する東回り廻船航路で、
江戸まで米や資材を持船で運んだ。

家康は東北大名達に命じて、
慶長14(1609)年、その中継地点である
銚子に港を築かせた。

このルートによる流通が盛んになるにつれ、
民間による海上輸送の方が有利となり、
東回り廻船航路での定期便が確立していった。

また江戸の消費需要が盛り上がるにつれ、
日本全国から多種多様な物産が
水運で運び込まれるようになった。

清酒は摂津国鴻ノ池
(現在の兵庫県伊丹市あたり)の酒屋が
慶長十五(1610)年に、最初に江戸に持ち込んだ。

当時、江戸では濁酒しかなかったため、
清酒は飛ぶように売れ、

はじめは人が背負って運んでいたのが、
駄馬による輸送となり、寛永(1624~43)になると、
船で運ばれるようになった。

醤油も正徳年間(1711~15)に、
大阪から持ち込まれて、
高級調味料としてもてはやされた。

上方の物産を江戸に運ぶために、
大阪と江戸の間の民営の定期航路が発達した。
二つの組織がそれぞれの定期便を運航して、
明治に入るまで、競争を続けた。

また江戸時代以前に確立していた
北前船(大阪と日本海経由で北海道を結ぶ)、
西廻り廻船(大阪と瀬戸内、九州を結ぶ)
と合わせて、日本列島全体を結ぶ
民間による定期商業航路が完成した。


■5.変動相場制による取引■

江戸時代の通貨制度は、
「東の金遣い・西の銀遣い」と言われ
江戸の金貨と上方の銀貨が
対等な本位貨幣として両立していた。

また銅貨も少額の補助貨幣として使われていた。
しかも、これらの間の交換比率は
変動相場制であった。

このような3貨制は世界的にみても

変動相場制だから、江戸の商人が
上方に注文を出すには、銀相場が安い時、
すなわち金高銀安の時に行うと有利だった。

たとえば、現代日本の企業が
国際市場で石油を調達しようとすると、
石油の価格の動きと、円-ドルの交換比率の
両方の変動を考えなければならない。

江戸の商人たちは、すでにそういう世界にいた。

江戸、大坂、京都には、
多くの両替商が繁盛していた。

貨幣の鋳造は幕府が行っており、
たびたび金銀の交換比率を公定したが、
ダイナミックな市場経済には幕府権力も及ばない。

両替商たちは、日々の相場を見ながら、
金銀の両替・売買を行った。

相場は「立会場」で決まった。

大阪・北浜にあった金相場会所では
正月三が日と五節句を除いて
毎日、午前10時から1~2時間、
「立会い」が開かれた。

両替商達が少しでも利益を上げようと、
血眼になって、取引に熱中する。

立会い時間が過ぎると拍子木を打って知らせるが、
取引が過熱していて終わらない時には水をかけた。
これを「水入り」という。

「立合い」「水入り」という相撲用語は、
当時の商業用語でもあった。

コンピュータこそないものの、
取引の内容自体は、現代の通貨市場と
本質的には変わらない。


■6.両替商の銀行業務■

両替商は、為替取引や預金・貸付け、
手形取扱いなど、現代の銀行と
ほぼ同じ事業を行っていた。

江戸-大阪-京都の三都間では
本格的な為替取引が行われていた。

たとえば、幕府の大阪御金蔵から
江戸への公金輸送と、
江戸商人から大阪商人に支払われる
商品代金を相殺する形で、決済していた。

商人は両替商に預金口座を開いて、
稼いだ貨幣を預けた。

現代の当座預金にあたるもので無利子だったが、
信用のある両替商と取引がある事は、
その商人自身の信用を高めた。

両替商は取引を希望する商人がいれば、
身元や財産状況を徹底的に調べてから、
口座を開いた。

両替商の中には大名に貸付けを行うものもいた。

諸大名は天下普請や参勤交代で出費がかさむ一方、
年貢収入は頭打ちだったため、
その財政状態は窮迫していた。

そこで家老や留守居役が藩主の代理人として、
両替商一同を料理屋などで接待し、借金を頼む。

両替商達は、その大名の信用状態によって、
貸出し総額を値切ったり、時には断ったりした。

また貸出しが焦げついた時の危険分散として、
何人かの両替商がシンジケートを組み、
貸付けを分担したりした。

現代の銀行が大企業に融資するのと
まったく同じである。

大名側は地位を利用して、
借金の踏み倒しを行う例も少なくなかった。

肥後熊本の細川家などはその常習犯で、
「細川家は前々から不埒なるお家柄にて、
度々町人の借金断りこれあり」
などと記録にも残っている。

こういうブラックリスト情報は
両替商仲間にすぐ伝わって、
組織的な貸し付けボイコットや年貢を
担保に求められるようになった。

大名の権威も、市場経済システムの前では
かたなしだった。


■7.通貨政策による物価安定■

諸大名は領地でとれた米を
大阪で売って銀を得ていた。

大阪の米市場では需給関係から米価が決まり、
その変動を見越した投機や、先物取引
(将来の一定期日にあらかじめ約束した価格で
商品を売買する取引)が行われていた。

近代的な商品先物取引が本格的に成立したのは
1865年のシカゴ商品取引所だと言われているが、

同所の発行する「商品取引便覧」には、

「1730年代に、日本の大阪において
先物取引を含む商品取引所が存在していたこと
は驚くべき事である」

と、大阪堂島の米市場を紹介している。[2,p88]

大名側が増収方策として米の増産に励んでも、
米の供給が増えるほど
米価が下がって収入は伸びない。
その反面、その他の商品の物価は上がり続けた。

幕府は米価の維持のために、米の買い付けを
大阪の豪商に命じたり、大阪御金蔵の資金によって
自ら買い付けたが、それを売りに出すと
すぐにまた米価は下がってしまう。

幕府は困って大阪の両替商たちに
米価維持策を相談した。

両替商達は、米が安いのは通貨の質が良すぎるのと
通貨供給量が少ないためだから、
貨幣供給量を増やすように、と答えている。

この策を直接聞き入れたためかどうかは
定かではないが、幕府は実際に貨幣の
金や銀の含有量を下げる貨幣改鋳を行って、
米価の上昇と、諸物価の安定にある程度成功した。

現代でも円高を避けるために、
政府が円売りドル買いをしたりするが、
幕府の米買いによる価格維持策は
それと同じである。

また両替商たちはすでに通貨の質や供給量が
物価にどのような影響を及ぼすのか、
すでに理解していた。

通貨政策で物価の安定を図るという
現代マネタリズム流の手法は、
20世紀の社会主義経済での公定価格制などよりも
はるかに先進的である。


■8.問屋株仲間は業界団体■

商品経済の発達につれて
幕府も年貢米を財政基盤とする体制から、
商品流通に財源を求めた。

江戸中期の老中、田沼意次は
現在の同業者団体にあたる「問屋株仲間」を
公認して独占を許すとともに、

その対価として冥加金、運上といった
「間接税」の徴収を始めた。

問屋株仲間はもともと米、酒、塩、味噌、炭など、
生活必需品12品目の高騰を規制するために、
同業組合として幕府が結成を命じたもので、
株とはその会員権をさした。

田沼時代末期の大阪では
130にものぼる問屋仲間が公認されていた。

問屋株仲間に入っていない業者が
勝手に商売を行った場合は、
幕府に訴えれば処罰してくれた。

また株仲間の一部が
幕府の規制に触れる行為を行うと、
株仲間全体が連座して処罰の対象となったので、
そのような事態を防ぐための自治活動が行われた。

新入りの仲間に対する厳しい選別過程はもとより、
仲間の跡取りの品行をチェックして、
道楽者、怠け者を排除したり、

嫁取り、婿取りに対しても、
全員の承認が必要だった。

問屋株仲間は幕府の指導・統制を
個々の業者に伝える「上意下達」だけでなく、

業界としてのコンセンサスをとりまとめて、
幕府に伝えるという「下意上達」の
機関でもでもあった。

これは現在の経済産業省が、
業界団体を通じて間接的に各事業者を統制する
という現在のやり方と同じである。

ただ間接税も業界団体を通じて
徴収するという点は異なる。


■9.4百年にわたる市場経済システムの進化■

公共投資政策としての天下普請、
需要喚起策としての参勤交代、
通貨政策や需給調整を通じた物価安定策、
高度な物流や金融のシステム、間接税、

そして業界団体による間接的な事業者統制、、、

こう見てくると江戸時代に発展した
市場経済システムは、現代にそっくりである。

明治維新後の「文明開化」が急速に進んだのも、
こうした近代的な市場経済システムが
実態としてすでに江戸時代から
存在したからである。

経済史的に見れば、明治維新や
大東亜戦争敗戦という転機にもかかわらず、

江戸時代から現代まで、
わが国の市場経済システムは環境変化に
適応しながら、400年間に渡って
連続的に進化してきたものである。

このあたりはロシアや中国とは根本的に異なる。

こう見れば、たとえば政府(官)と
個々の事業者(民)の間に
業界団体(公)を設けて業界としての
自治を求めるなどという日本流のやり方が、

アメリカ流「グローバル・スタンダード」に
欠落しているからと言って、
一概に時代遅れの産物であるかのように
見なすのはおかしい事が分かる。

歴史の浅いアメリカの市場経済システムが、
まだそこまで到達していない
だけの事かもしれない。

わずかここ10年ほどの経済の不振で、
我らの父祖が400年にわたって成長させてきた
市場経済システムを弊履にように投げ捨てて、

「グローバル・スタンダード」に走るのは、
歴史に学ばない愚か者のすることだ。

市場経済システムを、
どう新しい時代と環境に適応させ、
その長所を強みとして発揮させていくべきか、
と考えていくべきだろう。


■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)


1. 鈴木浩三、「資本主義は江戸で生まれた」★★、
 日経ビジネス文庫、H14
2. 西尾幹二他、「地球日本史 2」、
 産経新聞社、H10


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