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結局のところ、どんな奴(ら)だったのか。狭山事件(十)

5月1日以前、誘拐計画と脅迫状の準備
 脅迫状は5月1日より前に書かれ、あらかじめ準備されていた。少なくとも封筒表に小さく書かれていた28日、あるいは本文に書かれた29日にはすでに完成していたはずだ。この段階から日付や内容の訂正による捜査の撹乱を考えていたとするなら、身代金の現場で年功序列に配置していた当時の県警には太刀打ちできまい。そこまで考え抜かれた計画だったなら、遺体は永遠に発見されなかったように思う。だがしかし、その辺の穴に遺留品が捨てられていたりとかなり雑だ。
 身代金の最初の計画は当然「少時様」を狙っていたはずだ。身代金目的の誘拐を考えていたのであれば、もちろん標的は小さな子供だった可能性が高い。同年3月31日、事件の1ヶ月前に吉展ちゃん誘拐事件が起こっており、今回の誘拐事件はそれを参考にしている可能性があるからだ。幼児は威嚇によるコントロールも楽で、搬送も嵩張らない。
 第7回公判では「少時様」について触れており、「本部では付近一帯を調べたところ『小時さん』(ママ)は『正治さん』のあて字で同市堀兼のM正治さん(48)ではないかとみられるに至った。」
「犯人が営利誘拐をねらったと思われるMさん方は中田さん方と同じ中農、子どもは18才をかしらに中学一年の二男(12)小学校五年の三男(10)同二年の長女(8)の四人」となどの記載がある。
 当時狭山市堀兼のM正治さん宅の居住者名は空白となっていた。空き家になっていたのか、それとも表札を出していないのかは不明である。しかし記載がないにも関わらず誘拐の対象として挙げることができるということは犯人は地域に住むもので間違いない。また、M正治さん宅は佐野屋の真向かいであり、被害者宅も近い。標的が8歳の少女だったなら誘拐の対象としても自然である。20万円の身代金は安いという考え方もあるが当時の20万円は現在の200万円ほどで、昭和初期の誘拐を目論見そうな貧困層の者からすれば十分な金額だと思う。
 さらに脅迫状を書いた人間は、脅迫状に使われた漢字から小学校卒業レベルの漢字知識を持っている。また、万年筆、ボールペン、インク消し、大学ノート、白封筒を持つ者であり、軍手もしくはドライバー用手袋を装着して脅迫状を書いている。少なくとも「少時」誘拐の脅迫状を書いた人間は、自分につながる指紋を消そうとしていたのは明確だ。しかし、単なる遊びだったのか、計画段階で失敗に終わったのか、脅迫状は犯人または共犯者のズボンのポケットに入れられたまま3日から4日が過ぎている。そう考えると4月25日より前に脅迫状は書かれていた可能性がある。

4月28日
 なんらかの理由により、「少時様」誘拐計画は頓挫もしくは中止となった。

そして、5月1日
 当日の日記に自分の誕生日を喜ぶ記録を残し、被害者は家を出て郵便局へ向かった。高校へ行く前に記念切手の予約をしたが、混んでいたため領主書を放課後にもらうことにした。その後登校し授業を受け昼食は調理実習で調理したカレーライスを食べ、午後14時35分に6時間の授業を終えた。ホームルームを終え郵便局に向かい、受領書をもらい、毛糸店に向かって針刺しを購入している。その後、行方がわからなくなるまで近くの中学校の野球の試合を見ていた。その後、沢街道方向へ「向かった」か、沢街道方面から駅方向へ「帰って」きている。

目標の変更
 なぜ「少時様」から16歳の少女へ目標を変更したのだろうか。年齢が上がると拉致時の抵抗も強くなり、誘拐できたとしてもその後のコントロールも難しい。つまり、失敗する危険性が高くなる。しかも、被害者は自転車で移動しており犯人側からすれば誘拐後の移動も面倒で、自転車を放置すると誘拐の痕跡が残る。
 被害者宅は地域では「百万様」と呼ばれるほど裕福であったため誘拐の対象としては不自然ではないが、当時11歳の三男の方が対象としては適切に感じる。「少時様」誘拐にはなんらかの理由により踏み切れなかったにも関わらず、なぜ彼女には計画を決行したのだろうか。
 ①実は衝動的な強姦目的であったため
 ②金に困っていて結果誰でもよかったため
 ③少時様誘拐より簡単だったため
が、考えられうるのだが、①②はあまりにも衝動的すぎる。あれほど入念に脅迫状を作成した人物と思えない。となると③、誘拐で最も障壁となる拉致・誘導が容易だったからであろうか。子供のように力づくで抱えて連れ去ることがが容易ではなく、16歳女子高生の誘拐はそう簡単ではない。強姦だけにしては手が混みすぎているし、誘拐後犯人の動きからしても衝動性が感じられない。せいぜい、誘拐後あわよくば襲う程度だったのではないか。拉致が行われたとされる16時ごろは農作業に出ているものも多いはずだが周辺で悲鳴を聞いたなどの証言もない。
 被害者自ら現場へ移動したのであれば、顔見知りの犯行ということになる。門限が18時ごろの帰り際の女子高生をどこかに誘導できる者となると、同級生や中学校の友人、肉親や親類ぐらいしか思いつかない。
 それでなくても昭和初期のまだまだ貞操観念の強い時代に、16歳の乙女が知らないオッサンになどついていくわけない。また、被害者は誘拐されたその日が誕生日であり、それを知っていた人間の犯行である可能性は限りなく高い。誕生日を使った方が誘導に成功しやすいし、トマト等食事をしたことと整合性がある。
 ただし、誕生日イベントと誘拐イベントを分ける、という考え方もある。
 ①誕生日であることを有効活用し、誘拐し、食事し、その後なんらかの理由により殺害された。
 ②誕生日イベントは別で、イベントが終了してから帰り道に誘拐された、つまりトマトと誘拐は別の話。イベントがあったことで帰りが遅くなり、あたりが暗くなったところで拉致された。
 という考え方もできなくはないが、それなら誕生日イベントの参加者は名乗り出るだろうし、わざわざ隠す意味もない。やはり誕生日は誘拐の口実に使われたものだと考える方が合理的だ。事件の当日被害者は、雨を避けるようにガード下を転々と移動している。但し目撃証言は事後情報により変化したり消失したり脚色されることがわかっているため、あまり当てにならない部分もある。
 そして午後3時30以降、彼女は姿を消した。

3つの目撃証言について
  先ほども述べたが目撃者の証言については100%の信用を置いていない。「目撃証言の信憑性」の実験というものがあり、人は記憶を想起するときに後から些細な言葉の違いや誇張表現を加えられると想像力を働かせてしまい、記憶が歪んでしまうことが分かっている。
 また、プライミング(priming)効果というものもあり、先に示した情報に影響されて、後の言動などが変わってしまうことを指す。狭山事件は新聞や週刊誌で様々なことが後付けで憶測を呼びそうな報道や著書も多く、目撃証言に対して何らかの心理的効果が影響を受けていても不思議ではない。
 時間に関しても、時計を持ってその際に時刻を確認していたわけではないため曖昧な点が多く、結局裁判でも統一性を図れていない。雨の振り方によっておおよその時間を考えてはいるが、時刻だけでなく日付の違いも十分に考えられる。ちなみに、5月1日の降雨記録は自衛隊入間基地にて詳しく記録されている。
 14:02〜14:55 小雨
 15:26〜15:39 小雨
 16:20〜    本降り
 そして、5月2日の午前2:50ごろには雨が止んだとされている。
①O少年による目撃情報
 善枝さんの1年後輩のO少年が、沢街道より「百二、三十メートル位、入間川寄りの畑中で、入間川方面から帰ってくる善枝ちゃんと会いました」「家から入間川までは約30分で、その中間位で善枝ちゃんと出会い、15分位で東中に着いた」という目撃情報を、5日付調書(自宅で父親同席で証言)に残している。この発言については、その後警察関係者や周囲の大人が何度も確認を行なったため、最終的には「どうだったかわからない」と自信がなくなっていった。
 この目撃証言の日付や時間はともかく、被害者のいつもの下校路ではなく普段遭遇することがない道で遭遇していたことを少年は記憶している。ただし、すでに用事は終わり入間川駅方面に帰ってきている可能性もある。
②主婦の目撃
 被害者は通学路を外れた第1ガード下で畑仕事を終えた主婦に目撃されている。その時刻は、「午後3時20分ごろ」と述べているが、畑に出た時間、農作業をしていた時間、自宅に帰った時間などから本人が予想して警察官に話したものである。
 第1ガードの下で、被害者が「誰か知り合いの人でも待っているのかなという感じ」で自転車のハンドルを持って立っていたところを目撃している。午後1時前に家を出て30分位かけて畑に行き、「1時間少し仕事」「1時間以上仕事」をして、2時半頃に「だんだん雨が多く降り出したので中止」し、「20分位かけて」3時頃に荒神様まで帰り、祭りに出ていた店で「10~15分位」植木を見て、「3時20分項」第1ガードを通ったというのである。
 主婦は「雨が降りそうなので」傘を持って家を出ており、畑に着いた時には「きり雨」、2時半頃には「だんだん雨が多く降り出した」、被害者と出会った時には「服や顔等が大してぬれてもいないし、自転車で走って来て雨やどりをしているのなら顔や頭をハンカチか何かでふくのが普通ですが、そんな事もしてなかった」ということである。長い時間同じ場所で雨宿りをしていたのか、誰かを待っていたのか。
③中学校の担任教諭
 堀兼中学校で善枝の担任をしたことがあり、英語を教えていたY教諭も目撃証言を寄せている。午後3時ごろに堀中の野球部の生徒を引率し、第1ガートからさらに川越寄りの第2ガードを通りかかった時、被害者がガード下に立っていたのを目撃したという。
 Y先生はこの日、県の体育大会の野球の試合が三時半にあり、それに間に合うように生徒を引率して、三時前後、この第二ガードの前を通りかかった。そして、ガードの入り口の向かって左側のところに、うつむき加減に立っている被害者を見つけた。
 「普段の被害者なら、元気で、むこうから声をかけてくるはずであるのにかけて来なかったため『どうしたの』とこちらから声をかけた。するとはにかんで、足で石をつつくような仕草をした。そして何もいわない。言葉はかえってこなかった。いつもなら、はっきりと『……してるんです』というのに、なんの返事もなかった。その仕草で誰か人を待っていたのかなと、わたしには考えられる」と供述していた。しかし、この供述は4月25日のものであるという話もあり、はっきりしない。しかし、5月1日前後、ガード下で誰かを待っていた印象はあったということだ。
 プライミング効果により、誰かを待っていたのではという印象が一人歩きしただけで、ただ雨宿りしていた可能性はある。

「OTくん目撃場所」が①O少年目撃場所

拉致・誘拐の成功、殺害
 おそらく午後16時ごろ、なんらかの方法で拉致・監禁は成功した。女子高生を攫うには以下のようなハードルを超えたことになる。
 ①誘導もしくは暴力的拉致の成功
 ②自転車を含む所持品とともに殺害現場に移動
 ③監禁の成功と継続
 季節外れのトマトが誘拐後に食べられていたとしたら、誕生日イベントをうまく使って誘導したのは間違いないと思われる。誘い出しに使用しない手はないからだ。となるとトマトの準備はあらかじめされていたことになり、なんらかのもてなしができる人間が関与していたことになる。季節外れのトマトを含むもてなしができる成人男性が誘拐の実行犯だったなら顔見知り(しかもかなりの)であった可能性が高い。メッセンジャーや誘導した顔見知りがいたとするならば、実行犯は強姦は知られたくなかった事実ではないだろうか。そしてかなりの顔見知りが実行犯だとすれば、最初から殺す気でないと強姦などしないだろう。監禁の失敗により仕方なく殺してしまったなら、同時に強姦には至らないだろう。
 強姦が目的であったならば、被害者を見かけ、衝動に駆られ、たまたま脅迫状を持っていて、転用を思いつき、襲った後被害者の自転車に乗って脅迫状を届け、遺体を遺棄し、身代金を取りに行ったことになり、たかだか1回のために随分手のこんだ強姦犯だ。
 トマトのことを考えると殴って攫ったのは否定的となる。後頭部の傷についても、移動中に後ろから攻撃し拉致したとすると血まみれの女性を強姦したことにもなり、暴力的で猟奇的な人間と、緻密で準備していた脅迫状と人物像が一致しない。
 計画的な身代金誘拐であれば、顔を知られないように生かしておいて金を取って逃げることが計画の最も重要な目的となるはずだ。もし知り合いを使い、誘い出しを行なっているのであれば最初から大失敗しているのであるがこういう少し間抜けなところがこの事件には随所にあるように思う。
 衣服が一緒に埋められていた荒縄より濡れていないことからも、誘拐・殺害時は屋内にいた筈でどこかに監禁場所が存在していた。裁判では死亡推定時刻を5月1日午後4時20分ごろとし、弁護側では5月2日としている。

もし襲うとしたら薬研坂にするだろう

脅迫状の送付
 19時30分ごろ、犯人は動きを見せる。被害者の自転車による脅迫状の送付だ。犯人は本降りの雨の中、車ではなく被害者の自転車を使って脅迫状を被害者宅に届けに行っている。被害者宅で乗り捨てれば誘拐の証拠ともなり、自分の手元に証拠品を置かずに済む。しかし、被害者の自転車を使っているのに、わざわざ学生証を証拠として入れている点もやや間抜けである。
 もし脅迫状を送った時点で被害者が生きていたとしたら、単独犯であれば犯人はかなり度胸がある。しかも誘拐、もてなし、強姦、脅迫状の送付とスケジュールが恐ろしくタイトだ。複数犯であれば誰かが見張っておけばいいのだが、強姦は絶対にやり辛い。しかも、身代金目的でも強姦してしまえば証拠である体液が被害者に残ってしまう。
 そしてこのあたりから「車の友だち」の不在が見え隠れし始める。車の使用をあれほど言っておきながら、どこにも車が使われた形跡がない。

「Nさんの家はどこですか?」について
 誘拐当日、脅迫状を送ってきた時間あたりに被害者宅について訪ねた男がいた。被害者宅から4軒目にあるAさんの供述を見ると、「男が訪ねてきたとき、長男(23歳)と3男(14歳)は裏の親戚の家にテレビを見に行っており、次男(18歳)はすでに眠り、長女(20歳)は寝るために部屋に入り、妻は風呂からあがって部屋に入り休む支度をしていた、自分は風呂からあがって一服していた」という。その状況について具体的に述べられており、事件当日にAさん宅を訪ねてきた若い男がいることはどうやら間違いないように思われる。しかし、供述の内容を見るとその様子は被害者宅ではまだ夕食を取っていた午後7時半頃というより、午後9時ごろという内容ではある。さらに、わからないように脅迫状は工作しているにも関わらず、積極的に顔を晒すと言うのもちぐはぐな行動だ。むしろ訪ねてきたのは警察関係者だった可能性も否めない。

5月2日午前3時ごろ
 車での移動が困難になったため、雨が上がったのを見計らいリアカーを使って遺体を運ぶ。スコップを使って穴を掘り、遺体を埋める。
5月2日午後24時
 身代金を佐野屋に取りに行く。刑事がいるのが見えたため逃げる。

当時容疑者として疑われていたものについて
川村一彦氏「戦後日本の回想・昭和38年」より
 ①養豚場経営者のIK。事件当時27歳、被害者とは顔見知りで、傷害の前科が2犯あった。血液型AB型。2012年春に死去した。
 ②養豚場経営者の兄IT。当時33歳、刑務所で服役した過去がある。1966年に轢死した。
 ③養豚場経営者の弟IY。当時19歳。強姦の前科あり。警察によると血液型はO型。港会(現・住吉会)組員。事件当時よく一緒に野球をしていたという被害者宅近隣住民は、IYの人となりを「小柄なのに凶暴そのもの、怒ると何をしでかすか分からないような人間」と述べる。2005年に病死している。
 ④養豚場の入口脇に住む大工で1960年6月に強姦未遂・恐喝・窃盗などで検挙されていたTI。村の消息通は「不良っ子のうちで被害者の家の様子をよく知ってるものといえば、T君ぐらいなもんですよ」という。弟のTFは被害者の中学3年当時の同級生で、のち権現橋で首吊り自殺を遂げた。
 ⑤被差別部落出身で養豚場元従業員のTA(当時20歳。血液型O)港会(現・住吉会)組員。調理師免許あり。
 ⑥石川一雄の兄の友人のK三兄弟。
 ⑦石川一雄の兄に地下足袋を借りていた男性。
 ⑧10年前に恐喝の前歴があり、国産乗用車を持っている堀兼の電器店主M(当時29歳)
 ⑨刑務所に服役していたことがある入曽在住の農業の男性K。当時31歳、被害者の父親と顔見知りであった。

どんな奴(ら)だったのか
 この事件は警察による事実の捏造と脚色が多く、有名な三大物証については出どころすら怪しい。事実と事実でないものの境界も曖昧であるがこれまで可能な限り事実のみから起こったことを考えてみた。しかし、未だ公開されていない捜査資料もあるため、どうやっても犯人はこの人だと言えない。何より、書籍や裁判資料に登場する人物以外を知らないし、まだご存命の事件関係者もいるだろう。そのため、ここから先はただの未解決事件マニアによる妄想であることをご考慮いただきたい。
 まず、一人の人間を拉致・監禁し、身代金を奪おうとする計画を実際に実行している。犯人(たち?)に生じる利得と刑法を犯すことで生じるリスクを天秤にかけた結果、犯行を行うメリットが高かったということになる。と考えると最も重要な目的は「強姦」ではなく、逮捕のリスクが跳ね上がるにも関わらずわざわざ徒歩で取りに行った「金銭」のはずだ。そして、次の目標は「バレずに逃げ切ること」で、その証拠に脅迫状の作成では捕まらないためにどうするかがきちんと考えられている。
 なぜ目標の変更が起こったのかについては、二の足を踏んだことや実行が不可能な出来事が存在した、そもそも遊びで作ったものだったなど様々な理由が考えられる。しかし、誘拐された被害者のに特性としては「金持ち」でなおかつ「呼び出しや拉致が容易であること」が考えられ、当初の計画が頓挫したのにも関わらずわざわざ標的を変更したのだから、「脅迫状を使って強姦しよう」もしくは「強姦してしまって脅迫状の存在を思い出した」という衝動性は矛盾する行動だ。私は頭のいい人間が近親相姦やもっとファンタジックな何かを理由に八つ墓村的な犯行を行なったとは考えてない。人は何らかの実利が伴わない以上リスクを取らない生き物だと思っているからだ。

 脅迫状を書いた人間は学生で、同級生あるいは1〜2学年差の範囲の学生又は元学生だと考えている。この者を「Z」とする。
 まず、誘拐当日に被害者は何か(誰か)待っていたような挙動をとっている。誘拐もしくは拉致された時間帯は農作業でまだ人がいたにも関わらず付近で悲鳴を聞いた証言がない。さらに、誘拐当日被害者は誕生日であり、季節外れのトマトが食べられていた。つまり、誰かと待ち合わせしていたということだ。おそらく、誕生日パーティのようなものが開かれていた可能性がある。女子高生を抵抗なく誘導できる人間は同級生や幼馴染、肉親や恋人などの関係の近いものだろう。
 そして脅迫状は集中できる環境で書かれており、例えば「で」を「出」とする表現は4回も出ているが、全て間違えず書かれている。手袋を装着して書かれており、静かな部屋などで計算して書かれたのであろう。これを書くためには万年筆やボールペン、封筒、大学ノート、修正液など筆記用具を準備する必要があるが、学生もしくは卒業直後であれば当然持っているだろう。さらに本文では重要な部分では字を大きくして強調したりとドラマティックに書かれており、どこか戯けた印象で遊び心すら感じられる。
 これを書いた人間が被害者と近い年齢の者なら、誘き寄せも同一人物が行なった可能性が高い。同級生などの顔見知りであれば誘い出しも、誕生日の祝いもなんの違和感もなく行うことができるからだ。
 午後3時30から午後4時に「Z」は被害者に声をかけ誕生日企画パーティの開催を伝え呼び出し、監禁場所もしくは殺害場所に誘い出した。おそらく午後5時ごろまで食事などをしている間、もう一人の男が出現し「Z」と交代した。この男を「Y」とする。
 午後6時ごろには被害者は門限のため家に帰ると言い出した。「Y」は被害者を
脅したが逃げ出すことも考えて監禁のため拘束した。それでもコントロールできなかったため背後から首を絞めた。気を失わせる程度としか考えていなかったが、全く動かなくなってしまった。殺害は背後からでビニール紐か細いベルトでの絞殺、もしくは背後からの裸締めが考えられる。前のめりに倒れ動かなくなり、死んだかどうかわからなかったため、鉄パイプのようなもので頭を軽く殴ったが反応がなかった。仰向けにしたが顔を見ていられず目隠しを行った。
 ここまででかなりの時間を消費してしまい、脅迫状は最初から書き直しができず書き加えになってしまった。この左利きと思われる書き加えを行った人間は「Y」である。「Y」は「Z」に脅迫状を届けることを頼み、その間に西武園の池の中に捨てる気で紐を使って重石を纏った準備を行なった。そして「車の友だち」である「X」に連絡をしたが「X」とは何らかの理由によりコンタクトが取れなかった。そのため、「Y」と「Z」には徒歩での移動しか選択肢がなくなり遠くへ死体を運ぶことができなくなった。
 騒ぎが大きくなり移動が難しくなる前の5月2日の午前3時、雨が止むのを待って遺体をリアカーにうつ伏せに乗せ自転車での移動を始める。農道であれば人が歩けば踏み固められてバレないだろうと考えた。移動途中で短刀を使って遺体を引っ張るための荒縄を盗み、埋没現場に向かった。スコップを使って穴を掘り終わり、遺体に荒縄を結びリアカーから引っ張り降ろそうとした際、スカートがめくれ太ももや下着が露わになった。疲れていたのか緊張の糸が切れたのか、欲情しズロースを下げ、胸を触りながら後背位で死姦した。気がつくと空が白み始めていた。慌てて遺体を縄を使って引っ張りおろそうとすると、巻き付けていた石が引っかかったため細引き布を切り、遺体を穴に入れた。仕方なく石も穴に投げ入れ急いで埋める。この日の夜明けは記録では午前5時41分、「Y」は芋穴に棍棒とビニール片を捨て、遺留品を捨てながら逃走した。
 その後5月3日午後24時、「Y」は金を取る気で佐野屋の前の茶畑に姿を現した。畑を縫っていけば警察の包囲網は簡単に抜けることができた。近くに人の気配があり、警官がいることを察知した。女が姿を現し、「Y」は声をかけた。女が近づいてこないためイライラして短刀で近くの枝を切った。結局は取れる距離まで女は来なかったため諦め茶畑を後にした。
 この「Z」と「Y」はかなり密接な関係の者だと思われる。そうでないと秘密を守れない可能性が高いからだ。おそらく、公開された情報から「X」は脅迫状のことは知ってはいたが今回直接事件に関与していないため、自分に容疑がかけられないためにも余計なことを言わないでいたのだと思われる。

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