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監禁の手法、人間の飼育は相当面倒くさい

 「監禁」は人を一定の区画あるいは密室などに閉じ込め、そこから出る自由を奪うことである。日本でも身代金目的から性的目的に至る様々な理由で監禁事件が報じられてきた。個人レベルでの監禁はオスがメスに対して行うケースが大半で、目的の大部分は性的欲求に基づくものが多いように感じる。「監禁」行為は日本では刑法220条に抵触し、「不法に人を逮捕し、又は監禁した者は、3月以上7年以下の懲役に処する」とある。長期間に渡る監禁事件として歴史的にはドイツの「カスパーハウザー」やフランスの「鉄仮面」など思い浮かぶ。
 日本での監禁といえば「座敷牢」である。監禁の形態として古くから行われており、精神障害を抱える血縁者を自宅の檻に監禁する方法だ。これは近隣住民に迷惑をかけないようにだけでなく、障害者の生活の管理をしやすくするために閉じ込めていた。1910年(明治43年)に呉秀三により「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的視察」を内務省に提出してから座敷牢は廃止に向かった。

座敷牢

 その後、有名な監禁事件としては1983年に非行少年の更生のために入学した生徒を監禁していた「戸塚ヨットスクール事件」、1988年に女子高生を拉致し陵辱の限りを尽くした「女子高生コンクリート詰め殺人事件」、さらに誘拐監禁事件のレベルをあげた1990年に起こった「新潟少女監禁事件」などがある。この新潟少女監禁事件では自己の欲求から少女を拉致し9年2ヶ月に渡って自室で監禁していた。この踏み越えた者を皮切りに日本では自己の欲求のために少女を監禁しようとする輩が幾度も排出されることになった。
 しかし、人間を監禁し逃げないように長期間管理するのは相当に面倒くさい。それでも歪んだ孤独感や性的欲求を埋めるために行われてきた監禁事件の内容や方法に触れてみたい。

マルク・デュトルー(Marc Dutroux)事件ではベルギーで1995年から1996年の間に6人の少女を誘拐し、住み着いた空き家にあった地下室(幅99cm・奥行き2m34cm)に閉じ込めて幾度となく強姦を繰り返していた事件である。

現場となった空き家

 最初に誘拐され監禁されていた8歳の少女2人は、別の事件で半年間刑務所に服役したために餓死した。この少女のレイプ映像はチャイルド・ポルノとして販売されていた。

地下室

 バカンスに来ていた17歳と19歳の女性を誘拐した際はドラッグを投与され生きたまま埋葬され窒息死させられた。更にその後は12歳と14歳の少女を拉致、監禁し強姦していたのだが、14歳の少女を拉致する際に目撃者がいたため逮捕に繋がった。

マルク・デュトルー

 この事件では共犯の男がハイクラス層の小児性愛ネットワークのためにポルノを作っていたと証言したことで財政界や政府高官、警察関係者の疑惑が生まれた事件でもある。

その監禁場所は「恐怖の館」と呼ばれた

 しかもデュトルーには妻がおり同居していた。妻は少女たちに食事を与える役目だったが妻は地下室に行くのを嫌い、殆ど果たされなかったようだ。
 デュトルーは15歳の時に両親が離婚し、母親に引き取られるのが嫌で家出し、男娼となる。19歳の時に結婚し、2人の子供に恵まれるが8年後に離婚、その後電気技師、ドラッグの売人、自転車泥棒で生計を立てていた。
 その後愛人と共に悪事を繰り返し、二人とも逮捕されその後獄中結婚する。仮釈放後、空き家に住み付き地下室を改造し犯行に至るようになった。このケースでは被監禁者はかなりぞんざいに扱われていた。

 オーストリア少女監禁事件(フリッツル事件)では当時49歳の父親により娘が24年間地下室に監禁されていた。

監禁されていた部屋
色合いがなんとも不気味だ

 父親は吸入麻酔薬を使って娘を昏倒させ、自宅の地下室に閉じ込めた。娘に家出したと手紙を書かせ、家族に対してはカルト宗教に入信して消息がわからないと騙し続けた。
 24年間の間に地下室は居住スペースとして犯人の手によって改装され続け、監禁されてから7人の子供を実の父によって出産させられた。ヨーゼフは地下の秘密の部屋を地下牢に改造し、洗面台やトイレ、ベッド、ホットプレート、冷蔵庫を設置し、秘密の廊下も増設した。隠し地下室には、5mの回廊、貯蔵庫、3つの小部屋が設けられ、狭い廊下で繋がれている。台所と風呂に続いて2つの寝室が作られ、それぞれに2つずつのベッドが備えられた。
 隠し地下室には2つの出入り口があり、開き戸は重さが500kgもあった。コンクリートで補強された金属のドアは、重さ300kgで作られていた。このドアはヨーゼフの地下の仕事場の戸棚の裏に隠され、遠隔操作の電気コードで守っていた念の入れようである。このドアに辿り着くためには、5つの鍵のかかった部屋を通る必要があり、さらに子供達がいる部屋までは、合計8つのドアを解錠する必要があり、そのうち2つのドアはさらに電子錠で守られていた。

地下構造

 4人目の子供を出産した後、部屋を拡張しテレビやラジオを与えられたが、3日に1度の割合で食事や日用品を与えられる程度であった。何らかの罰を与える際は数日間電気の供給を止めたり、食事の供給をやめたり、また脱出を試みようとすると「ガスで殺す」「ドアには電気が流れている」と脅していた。
 実際にドアには電流が流れていなかったため、脅しだけで脱出の意思は挫かれていた。

 監禁されていた長女が意識を頻回に失うようになり止むを得ず病院に受診した際に医師に助けを求めて監禁が発覚した。長女は重篤な腎不全だった。監禁されていた子供たちは日光にあたってなかったため、ビタミンD不足で慢性的な貧血状態であった。

ヨーゼフ・フリッツル

 犯人のヨーゼフ・フリッツルは娘が11歳の頃から性的虐待を開始しており、その4年後から地下室を改造し始めた。ヨーゼフは32歳の時に既婚女性の家に押し入り、ナイフを突きつけて強姦した前科も持っていた。同年に別の女性も強姦しようとしたが、未遂に終わっており、彼は逮捕され、当時懲役18ヶ月の判決を受けた。

 この事件は映画「ROOM」の題材ともなっている。ヨーゼフは長期間の監禁に成功しているが、食事回数の少なさや屋外に出られないことから被監禁者は病気になったことから事件が発覚した。

 2013年にアメリカのクリーブランドで発覚した監禁事件は、14歳から16歳の少女3人を10年に渡り監禁していた。

監禁部屋のひとつ

 そこでは脅迫、レイプ、暴力が日常的に行われていた。少女たちは別々の部屋に監禁され、容易に逃げ出せないように女性たちは全裸にされていた。女性たちは年に1度しかシャワーを浴びることはできず、監禁されていた2階の部屋は窓に板が打ち付けられ、大量の鎖も見つかっている。

 犯人は性的奴隷を目的として誘拐監禁しており、最も長く監禁された女性は12年間で、監禁生活の中で5回妊娠をするが、その都度2週間以上の絶食、腹部への暴行により流産させられている。誘拐された女性は最初は地下室で鎖をつけられていたが、数年が経過すると部屋に鍵をかけるだけで鎖はつけずに暮らすようになった。

 また発覚への警戒から来客時には靴下を口に詰め込まれ粘着テープを付けられていた。監禁された家の割れたドアから助けを求めて叫ぶ女性の声に気づいた近隣住民が女性と幼女を助けたところから事件が発覚した。

 逮捕されたのは被害者の近隣に住むスクールバス運転手、アリエル・カストロであった。彼は33歳の時に妻への暴力で逮捕されたが起訴されずに釈放されていた。

アリエル・カストロ

 その後妻は子供を連れて家から出るが、その後も妻への脅迫が続いた。彼は度重なる就業不良で解雇されており、家は常に厳重に施錠されていたそうだ。容疑者宅は、被害者たちの自宅から約5kmの位置にあり、行方不明時には容疑者自身が捜索のボランティアにも参加していた。

 この事件も「クリーブランド監禁事件 少女たちの悲鳴」として映画化されている。性的欲求の奴隷として3人の女性を追加しながら監禁を継続していたが、発覚につながったのは慢心と油断である。

 日本でも類似の事件はいくつか起こっている。少し趣旨は違うが、女子高生コンクリート詰め事件でも40日間の監禁が行われた。
 これは1985年に15歳から18歳の4人の非行少年グループにより17歳の女子高生が拉致、監禁され40日間に渡り暴行、強姦を受けコンクリート詰めにされ東京湾埋立地に遺棄された事件だ。
 犯人グループは、強姦に加え、剃刀で陰毛を剃る、陰部にマッチ棒を挿して火をつけるなどの凌辱行為に始まり、殴る蹴るなどの暴行を長期間に渡って加えた。

監禁されていた家

 ライターの火を押し付けて火傷を負わせたり、肛門への異物挿入、シンナー吸引の強要、酒を飲ませる、自慰行為の強要を繰り返した。揮発性の油を注ぎライターで点火し重度の火傷を負わせた。
 少量の食物しか与えられなかった女子高生は火傷が感染し重症化した。その後衰弱し死亡した。遺体はドラム缶に入れられコンクリート詰めにされ東京湾埋立地に遺棄された。

遺棄現場

 監禁部屋となった少年の家は両親ともに共働きで帰宅が遅かった上、少年からの家庭内暴力が激しく、両親は息子を監督できていなかった。そのため、監禁部屋は不良少年の溜まり場になっていた。
 監禁当初は少年たちが部屋で奇声を発することを父親が注意をしたが室内には入れてもらえなかった。両親は女性がいることは認識していたため、父親が一度少女を解放するも少年が追いかけて連れ戻していた。なぜ戻ったのかについてはおそらく度重なる暴力行為や陵辱により少女は極度に怯えていたためだと思われる。
 これは長期的な監禁の維持を目的としておらず、幼稚で自我を失った獣の集団による刹那的な犯行である。タガが外れた暴力行為の収拾をつけることができず少女は死亡した。

 1995年に起こったオウム真理教によるピアニスト監禁事件では、入信を強要する為に洗脳目的で妊娠中の女性ピアニストが謎の黄色い液体を飲まされ教団施設に3ヶ月に渡って監禁された。

監禁されていた施設

 監禁されていた際はパン、ビスケット、バナナ1本が1日の食事で、シャワーは2週間に1回だった。

施設内

 手足は緊縛され、暴行を度々受けている。脱走を試みようとした際にはチオペンタールナトリウム(バルビツール酸系麻酔薬で、鎮静・催眠効果があり自白剤としても使われていた薬剤)を投与されコンテナで監禁された。シャワー室で見つけたドライバーでコンテナ床板の分解を試みたりしたが、脱出できず警察による一斉捜査の際に発見され救出された。
 カルト宗教による出家を強要するための監禁事件である。オウム真理教には医師がおりLSDや麻酔薬などを使い洗脳を試みようとしていた。性的目的ではないため、集団監禁されていたケースである。

 1990年に起こった新潟少女監禁事件は、監禁事件の金字塔とも言える。この事件の発覚からそれ以後監禁方法を倣った事件が急激に増加することになる。当時28歳の佐藤宣行は9歳の少女を拉致し9年2ヶ月にわたり自宅に監禁した。

犯人の自宅

 佐藤宣行は農道を一人で歩いていた9歳の女児をナイフで脅して誘拐し、自宅に監禁した。監禁後は再三女児に対し「誘拐されて殺されちゃった女の子みたいにおまえもなってみたいか」「この部屋からは出られないぞ。ずっとここで暮らすんだ。約束を守らなかったらお前なんか要らなくなる。山に埋めてやる。海に浮かべる」などと脅迫的な言葉を浴びせ続けた。
 自分の指示に従わない時はナイフを突きつける、顔面を数十回殴打するといった暴行を行い、最初の2〜3か月間は自身の外出や就寝の際には女児の両手足を緊縛して身動きが取れないようにしていた。
 その後両手の緊縛は解かれたものの、両脚の緊縛については1年ほど続いた。

監禁されていた部屋

 ルールとしては大声を出さないこと、部屋を出入りする際には顔を隠したり毛布に潜ったりすること、自室のセミダブルベッドから許可なく降りないこと、暴れないことなどを命令し、これに従わない際には暴行を加えた。さらに1年目からは暴行の道具としてスタンガンが使用され始める。
 また、生活に関わる雑用をこなさなかったり、プロレス技を掛けられ女児が苦痛に声をあげたときなどにも、「スタンガンの刑」と称して暴行が加えられた。
 監禁期間中、軽い殴打は700回程度、力を込めた殴打は200から300回程度に及んだとされる。
 食事は当初、母親が息子の夜食用に用意していた重箱詰めの弁当が与えられていたが、高齢であった母親の負担を考慮しコンビニ弁当に切り替えた。
 しかし足に痣ができているのを発見し高タンパク由来のものと考え糖尿病に進行することを危惧し、「運動をしない以上、減らすしかないと思い」女児の食事を1日1食に減らした。そのため少女は数か月後から体調を悪化させていった。体重が38 kgまで減少し、女児は失神を起こすようになったがおにぎりが一つ足されることがある程度の対処法であった。
 ベッドの上で行う脚部の屈伸が女児に許されていた唯一の運動であり、その後糖尿病予防のため床上での足踏みも許されたが、階下に母親がいる場合には存在を気取られないため、それも禁止された。
 そのため少女の筋肉は著しく萎縮し、腕に掴まってようやく立てる状態であった。発見後の検査では著しい栄養不良に加え、両下肢筋力低下、骨粗鬆症、鉄欠乏性貧血が認められ、通常歩行は不可能な状態だった。
 また、排泄は佐藤宣行自身が潔癖症のためトイレを使えずビニール袋に排泄し排泄後の袋は部屋の外の廊下に放置していた。この方法に倣わせ同じようにさせていた。こうした環境下に置きながら、少女が監禁中に入浴したのはベッドから落下して埃まみれになった際に、目隠しをしたまま1階でシャワーを浴びせられたことが1回あるのみだった。
 漫画や新聞などを与え、テレビ、ラジオで流れるニュースなどの内容や、嗜好する事柄についてAと語り合うことを好んだとされる。
 佐藤は女児を「友達」と認識しており、公判では「私の言いつけを本当によく守るようになりました。これからはずっと、一緒に暮らしたいと思いました。競馬や自動車など、対等に話ができた。基本的に好きだった。同世代の女性と思っていた。かけがえのない話し相手だったので、解放することはできませんでした」と供述している。

佐藤宣行

 佐藤は無職で引きこもりだった。父親が高齢で嫌悪感を抱いており、家庭内暴力が酷く、強制入院のために病院職員が自室に踏み込んだ際に少女を発見した。この事件以降、小学生の女児失踪行方不明事件は拉致・監禁の可能性があることを示唆するようになった。

 2001年から2005年に起きた北海道・東京連続少女監禁事件では、ハーレムに憧れた小林泰剛が20歳の女性を自宅に連れ込んで2週間に渡り監禁した。ペット用の首輪をつけたり、「ご主人様」と呼ぶように強要していた。
 また19歳の別の女性を監禁し、包丁で足を傷つけたり、熱湯を浴びせるなどの暴行も行なっていた。その後東京では別の18歳の女性をマンションやホテルで監禁、ペット用の首輪をつけていた。他にも17歳の少女をホテルで約3日間監禁、22歳の女性をマンションに4ヶ月監禁、23歳の女性をマンションに10日間監禁している。その風貌から「監禁王子」とメディアで呼ばれることになった。

小林泰剛

 王子は青森の資産家の家に生まれ、裕福な家庭環境でアダルトゲームに熱中していたらしい。母親が逝去し、その後家を出て犯行を開始している。法廷に白いスーツで出廷することもあった。逮捕時には陵辱・監禁を題材にしたアダルトゲームが1000本以上見つかっている。幼い頃からセーラームーンのキャラクターになり切ったりと変わりものだった訳だが、変態性的ファンタジーを現実に遂行した。政治家や資産家が血縁におり、幾度となくカネで解決していた。

 2003年のプチエンジェル事件では、小学6年生の少女4人が「部屋を1万円で掃除してほしい」と誘われ、手錠と目隠しをされ、手錠に20リットルのポリタンクや鉄アレイをつけて逃げられないようにスタンガンで脅し、5日間あまり監禁された。監禁5日目に容疑者は煉炭自殺を図り死亡している。

 犯人の29歳の男性は無店舗型の非合法の未成年者デートクラブ「プチエンジェル」を経営していた。これは女子高生数人をスカウトとして雇い、渋谷や新宿で「カラオケ5,000円、下着提供10,000円、裸体撮影10,000円」などと書かれたチラシを配ってローティーンの少女を勧誘し、男性客に斡旋、その他わいせつビデオの販売も合わせて多額の利益を得ていた。また本人も過去に買春で逮捕歴があり執行猶予中だった。
 この男は若い時からロリータクラブに出入りしており、その後「プチエンジェル」を立ち上げるのだが、逮捕時の預金総額は35億円あったとも言われている。あまりにも社会的地位の高いものがプチエンジェルの会員となっていたため、メディアは沈黙したのだが、ジェフリー・エプスタインのように富豪には変態が多いのだろう。

 このように、監禁行為は性的暴行を目的とすることが圧倒的に多い。監禁は目標の決定、拉致、搬送、監禁の維持で構成されるが、未成年者の拉致監禁は逮捕が早いケースが多い。性的衝動により行動に出るため目標の決定から拉致の段階で目撃者が多くいたり、顔見知りの犯行であったりするケースが多いからだ。
 監禁状態では、主に主導権を加害者が積極的に握ることを目的に、脅迫と暴力が最も使用される。被監禁者の生命への危機的状況を仄めかす強迫行為だけではなく、家族や友人に被害が及ぶことを仄めかし、加害者の要求に従うようにしつこく働きかける。要求に従わないと暴力行為も厭わない。
 言語的暴力行為だけではなく、身体的暴力行為も惜しげもなく行われる。殴る、蹴るなどの古典的方法が取られることが多く、よくスタンガンも使用されるが、外傷を伴う暴力はその後のフォローやケアが難しいため、刃物を使ったりすることは少ない。女子高生コンクリート詰め事件のように、重度の火傷を負わせたケースもあるが、その後死亡する原因ともなっている。長期的な監禁の維持の為には外傷を伴う暴力行為は監禁の継続を難しくする可能性が高い。
 拘束には鎖や手錠がよく使用されている。家屋の構造上なかなか鎖を外されないように固定するのは難しい。ヨーゼフのように地下の区画を監禁ように拡張・改造するケースもあるが、ほとんどは拘束具を使用し逃走のリスクマネジメントを行なっている。

 監禁の維持の為に取られる手法の特徴は「ダブルバインド」である。ダブルバインドとは、二つの矛盾したメッセージを出すことで、相手を混乱させる可能性のあるコミュニケーションのことである。統合失調症(精神疾患)の研究者であった文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンが発表した言葉で、日本語では「二重拘束」という意味を持つ。
 1つのメッセージと、もう一つのメッセージに矛盾が起きていて、どちらに従ったとしても自分は満足できない状態になる。要するに「あれもこれもダメ」状態で、選ぶ側の欲求を満たす条件が全く無いことだ。
 監禁者はこの要求を被監禁者に長期間に渡って出し続ける。ダブルバインドの方法は以下のような形式で出される。
心理的強要か心理的強要か
「逃げ出そうとしたら」「親を殺す」
心理的強要か肉体的強要か
「逃げ出そうとしたら」「電流を流す」
肉体的強要か肉体的強要か
「ベッドから降りるな」「殴るぞ」
どダブルバインドはどちらも従いたくないが二番目の要求の方が精神的にも肉体的にも過酷で、そもそも選ぶ選択肢を与えられていない。
 選ばせている様に見えるが、選ばせておらず自由意志を尊重しない選択肢を要求し続ける。ヒトは罪悪感を感じやすい生き物のため、永遠に拒否し続けることができない。元々尊厳を奪われている状況に置かれているため選ぶことにすでに意味はないのだ。

 監禁の最終目的は監禁の永続的な維持であり、目的のために繰り返されるのが、継続的な脅迫と拷問だ。これらの行動が繰り返されるといつしか被監禁者は抵抗や脱出の意思を失ってしまう。この状態を学習性無力感(学習性絶望感)と呼ぶ。
学習性無力感(Leaned helplessness)は1967年にセリグマンとメイヤーが実験によって確認し発表した。人間は学習過程で試行錯誤を繰り返す。その中で時には失敗しながらも成果を出しポジティブなフィードバックが得られる。ところが、試行錯誤をいくら繰り返しても全く成果が得られないと、試行錯誤自体をやめてしまうのだ。
 長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象である。
 なぜ罰されるのかわからない刺激が与えられる環境によって「何をやっても無駄だ」という認知を形成した場合に、学習に基づく無力感が生じ、それはうつ病に類似した症状を呈する。長期的な監禁状態における被監禁者はこの学習性無力感と日々戦っている。

 監禁者は被監禁者の生活の質に関心を寄せていないことがほとんどだ。少女や女性を監禁する者自身がそもそも生活能力が低いものが多く、共感能力が低い。
 閉じ込めるための箱は用意するものの、監禁者は自己も清潔や食に疎いことが多く1日1食程度しか被監禁者に食事を与えていないことが多い。
 被監禁者は発見時ほとんど全てが栄養失調状態であり、長期間の監禁状態にあった被監禁者は失神を繰り返したりしていることが多い。日中の活動すらままならないほど飢餓状態になっていたり、運動ができず、日光にも当たっていないため骨粗鬆症で発見されることが多い。また、何ヶ月もしくは年単位で入浴していなかった被監禁者も多い。
 性的欲求を起源とする監禁は長期的な監禁を目指すにも関わらず、監禁者自身の生活能力の低さから被監禁者の生活も満足に保証されていない。
 また、長期的な監禁により逃げる気力を消失させられているだけでなく、チャンスがあってもその体力がない状態となっている。監禁者は社会的な接触が少なく、監禁が明るみになる機会が少ない。ある程度長期に渡った監禁から解放する為には、彼女たち自身の勇気にかかっている。

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