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「うち捨てられた二人の女児」飯塚事件(1)

 この事件は冤罪が強く疑われる事件なのだが、他の冤罪が疑われる事件とは全く違う点が一つだけある。それは、冤罪が疑われながらも死刑に処したことだ。この事件で死刑判決が下された久間元死刑囚は判決からわずか2年で死刑に処された。
 真犯人が存在するならば、命懸けの身代わりによって新たな犯行が不可能となった。真犯人は沈黙さえすれば自分が逮捕されることは永久にないからだ。そいつは事件から30年間、必死に衝動に耐えているのだろうか。それとも、久間元死刑囚が本当の犯人だったのだろうか。
 この事件は何しろ状況証拠しかない。直接的に犯行と久間元死刑囚を結びつけるものが一切ないのだ。
 不謹慎な言い方だが、冤罪は非常に興味深い。もしも久間元死刑囚が犯人でないならば、この事件の証拠たちは真実が無視され、こじつけと個人のバイアス、正義を遂行していると頑なに思い込んだ先入観により、事実がねじ曲げられているということになる。
 もしかしたらねじ曲げた当人らは絶対にこいつだと思い捜査していたかもしれない。「犯人はこいつなのに」「こいつを捕まえれば次の犯行を防げるのに」「新たな犯行を犯させてはいけない」
 新たな犠牲者を出さないためにも決定的証拠がなかったとしても、大義・正義のためにと捜査したのかもしれない。
 もしかしたら久間元死刑囚が真犯人であり、捜査機関は本当に懸命の捜査で繊維片の一致により逮捕したのかもしれない。
 果たしてこの事件が科学的で合理的で事実に基づいているのか、妄想してみたい。

 1992年(平成4年)2月20日、福岡県飯塚市で2人の女児が登校中に行方不明になり、翌21日に同県甘木市(現:朝倉市)の山中で2人とも他殺体となって発見された。

1992年2月20日朝
 飯塚市立潤野小学校の1年生女児2人(ともに7歳)が登校途中に行方不明になった。
12時30分
 学校により2人とも自宅に帰宅していないことが確認されたため、午後12時30分に捜索願が出される。捜索するも女児2人は発見できなかった。
13時30分
 女児が見つからないため、小学校は他の児童を下校させる。
 その後懸命な捜索を行うが女児は発見できなかった。
2月21日12時10分ごろ
 行方不明現場から約20 km離れた甘木市の国道322号の八丁峠を自動車で走行していた52歳の男性が、小用のために車から降りたところ崖下にマネキンのようなものが2体捨てられているのを不審に思い、警察に通報した。
 甘木署員が崖下を調べたところ、それは2人の遺体であることが判明した。遺体の顔面には殴られたような痕と、首に絞められたような痕があった。

21時頃
 それぞれの両親によって遺体が行方不明女児2人であることが確認された。2人の遺体は、上半身は衣服を着ており下半身もスカートを身につけていたが、パンツが脱がされて下半身が露出し、陰部に性的ないたずらの形跡があった。
 福岡県警は、本件を殺人・死体遺棄事件と断定し、直ちに260人の捜査体制を敷いた。
2月22日
 遺体発見現場から3km離れた八丁峠沿道の山中から、被害者2人のランドセルや着衣の一部が道路から投げ捨てられたような状態で遺棄されているのが発見された。
 司法解剖の結果、2人の死亡推定時刻は、胃の内容物から20日午前9時30分以前とされた。

2月25日
 県警は事件発生から5日後、飯塚市内に住む久間三千年元死刑囚(当時54歳)宅を訪問し、事件当日のアリバイ等を聴取した。久間氏は当時、定職についておらず主夫であった。どのような理由で久間氏が早い段階で事情聴取を受けることになったのかは不明である。
 捜査では、甘木市の森林組合職員から、遺留品遺棄現場で不審車両を見たとの情報が提供された。
3月9日
 不審車両を目撃した森林組合職員からの情報では「事件当日の午前11時頃、八丁峠を下る途中にダブルタイヤで窓に色付きフィルムを貼っていた紺色ワゴン車が停車していた」という供述であった。
 久間氏は本件当時は同じ特徴の車両を所有・使用していた。
 さらに、事件当日女児の通学路にいた造園業者から「事件当日の午前8時半頃、紺色ワゴンのダブルタイヤで黒い遮光フィルムが貼られていた車両が猛スピードで走り去り、その際に知人がぶつかりそうになった」との情報が寄せられた。
 県警は、重要参考人として久間氏をマークし捜査員が尾行していた。これに対して久間氏は、尾行の車をまいたり急ブレーキを掛けたりするなどの挑戦的な行動をしている。
 女児の膣内及びその周辺から採取された血液を警察庁の科学警察研究所で鑑定したところ、久間のDNA型と「ほぼ一致する」という結果が出た。しかし、別の専門家にも鑑定を依頼したところ、「微量ではっきりしない」との結果だったため、逮捕には至らなかった。
1992年9月末ごろ
 久間氏は所有していた車両を売却、県警はその日のうちに車を押収し、車内を調べたものの、車内はきれいに掃除されており、毛髪なども発見されなかった。
10月5日
 鑑定によって、後部座席と付近のフロアマットから尿反応・血液反応が出た。しかし、被害者と同じO型で人血であることまでは鑑定できたが、DNA型は検出されなかった。
1993年(平成5年)9月29日午前8時10分ごろ
 県警捜査一課巡査長と飯塚署巡査長が久間氏宅のゴミ袋を拾うなどして車に乗ったところ、久間氏が「何をしているか」などと言って刃渡り15cmの刈り込みバサミで切りつけ、2人の手などに全治5〜10日の怪我をさせたため、県警は傷害と暴力行為の疑いで久間氏を緊急逮捕した。この件では2女児殺害の取り調べはされず、久間氏は罰金10万円の略式命令を受けた。
1994年6月
 新たなDNA型鑑定方法を導入したため、捜査官が再度車内を捜索したところ、繊維鑑定で切り取った部分と接する部分に変色痕があることを発見した。
 東レ株式会社の鑑定人に照会したところ、繊維鑑定で切り取って鑑定に出された部分に当初からシミが存在したことが確認され、預けていたシミについて鑑定がなされることとなった(その後、被害者の1人と同じO型の血液型が認められ、新たに導入されたTH01型・PM検査法によってその被害者のDNA型と同一の型が検出されたとしている)
 また、科警研の鑑定により被害者の膣内やその周辺に存在していた血痕と久間氏の血液型(B型)及びDNAのMCT118型が合致したとされた。
 さらに県警は、女児の衣服に付着していた微量の繊維片についても科学鑑定したところ、久間の所有車のシートと繊維が一致することを突き止めた。
1994年(平成6年)9月23日
 死体遺棄容疑で久間三千年氏(当時56歳)を逮捕した。

同年10月14日
 久間氏を殺人容疑で再逮捕した。福岡地検は、久間氏を死体遺棄罪で起訴する。
同年11月5日
 福岡地検は殺人・略取誘拐で追起訴。
1995年2月20日
 初公判が開かれる。
1999年(平成11年)9月29日
 久間氏を犯人と認定し、福岡地裁は死刑判決を言い渡す。
2001年(平成13年)10月10日
 久間氏は福岡高等裁判所へ控訴したが、福岡高裁第2刑事部第1審で認められた状況証拠を同様に評価した上で控訴を棄却した。
2006年(平成18年)9月8日
 最高裁判所第二小法廷は、「被告人が犯人であることについては合理的疑いを超えた高度の蓋然性がある」として、5裁判官全員一致の意見で上告を棄却した。
2008年10月24日
 森法務大臣により、福岡拘置所において久間氏の死刑執行がなされた。70歳没。死刑確定から2年での執行だった。
 死刑執行の際、久間氏は手順に従って氏名を確認しようとする刑務官に対し「そんなこと、おまえが分かっとるだろ」と怒りを露わにし、遺書のために用意された紙とペンも受け取らず、最期まで「私はやってない」と怒鳴っていたとされる。

 以上が事件の大まかな概要である。この事件は現在も再審請求をしているが、それはまた別の項目で述べたい。
 なおこの事件については、情報が多く存在するため、各項目ごとに妄想していきたい。

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